《追想録》 タカミヤホテルグループ会長 岡崎 彌平治さん
2007年3月9日
2月23日、タカミヤホテルグループ会長の岡崎彌平治(おかざき・やへいじ)さんが亡くなった。78歳。
昭和4年、享保元年(1716年)から続く蔵王温泉の老舗、「高見屋旅館」当主の第14代彌平治氏の長男として生まれる。幼名は博彌(ひろみ)。
昭和4年、享保元年(1716年)から続く蔵王温泉の老舗、「高見屋旅館」当主の第14代彌平治氏の長男として生まれる。幼名は博彌(ひろみ)。

昭和16年に山形第二中学校(現在の山形南高)に第一期生として入学したが、太平洋戦争の激化で同19年海軍甲種飛行予科練習生(予科練)として鳥取県美保航空隊に入隊。翌年、特攻隊に配属されて出撃命令を待つばかりの8月15日、敗戦が決まり九死に一生を得る。
一時蔵王に帰省した後、同22年に早稲田大学専門学部政治経済学科入学。同24年、家業を継ぐため再び蔵王に戻り、同29年高見屋旅館を株式会社化して社長に就任。会長に退く平成8年までグループの拡大と蔵王温泉の活性化に大きな功績を残した。同17年に黄綬褒章、同18年に三浦記念賞を受章。
「突然の死で呆然(ぼうぜん)としてしまいました」と語るのは次男の重知氏。死因は腹部大動脈りゅう破裂で、死の直前にはじめて痛みを訴えたという。「特攻隊で鍛えられたせいか、すべてに我慢強い父でした。以前から痛みはあったはずなのに、もっと早くに訴えてくれていたらと悔やまれます」。
特攻隊の同期で、戦後は家族ぐるみの付き合いを続けていたという福島県会津坂下町在住の三富要(みとみ・かなめ)氏は「名家の生まれなのに尊大なところが微塵もない。3日前にも電話で話したばかりで、私の体調のことなど細かな気配りをしてくれていた」と故人をしのぶ。
昨年12月、故人へのインタビューなどで構成する「蔵王よもやま話」を上梓した山形新聞社編集局付の新関昭男氏は「スケールの大きさ、経営者としての偉大さを感じた。まさに『巨星堕(お)つ』の感だ」と人物、功績をたたえる。
弊社にも訃報は突然やってきた。12月8日号「編集長インタビュー」への登場をお願いし、写真の取り直しなど2度にわたる取材にも快く応じていただいた。帰り際、われわれの車が見えなくなるまで玄関先に立たれていた姿が忘れられない。合掌。
一時蔵王に帰省した後、同22年に早稲田大学専門学部政治経済学科入学。同24年、家業を継ぐため再び蔵王に戻り、同29年高見屋旅館を株式会社化して社長に就任。会長に退く平成8年までグループの拡大と蔵王温泉の活性化に大きな功績を残した。同17年に黄綬褒章、同18年に三浦記念賞を受章。
「突然の死で呆然(ぼうぜん)としてしまいました」と語るのは次男の重知氏。死因は腹部大動脈りゅう破裂で、死の直前にはじめて痛みを訴えたという。「特攻隊で鍛えられたせいか、すべてに我慢強い父でした。以前から痛みはあったはずなのに、もっと早くに訴えてくれていたらと悔やまれます」。
特攻隊の同期で、戦後は家族ぐるみの付き合いを続けていたという福島県会津坂下町在住の三富要(みとみ・かなめ)氏は「名家の生まれなのに尊大なところが微塵もない。3日前にも電話で話したばかりで、私の体調のことなど細かな気配りをしてくれていた」と故人をしのぶ。
昨年12月、故人へのインタビューなどで構成する「蔵王よもやま話」を上梓した山形新聞社編集局付の新関昭男氏は「スケールの大きさ、経営者としての偉大さを感じた。まさに『巨星堕(お)つ』の感だ」と人物、功績をたたえる。
弊社にも訃報は突然やってきた。12月8日号「編集長インタビュー」への登場をお願いし、写真の取り直しなど2度にわたる取材にも快く応じていただいた。帰り際、われわれの車が見えなくなるまで玄関先に立たれていた姿が忘れられない。合掌。