《おしえて!編集長》 直江兼続って?

編集長、大河ドラマの舞台が山形ですよ!
山形が主舞台は初
「御同慶の至りです。昭和38年から始まった大河ドラマの作品一覧を見てるんだけど、山形が舞台の中心になるのって、なかったんじゃないかなあ」
「登場するとしたら上杉家とか最上義光なんだろうけど、『天と地と』「(昭和44年)とか『風林火山』(平成19年)とかは上杉謙信で、舞台は新潟。山形は直接の関係はない」

米沢藩と赤穂浪士
「上杉家の5代目の当主で米沢藩主の綱憲って人がいて、この人は赤穂浪士の仇だった吉良上野介の実子。当時も今も世間は赤穂浪士の肩持つんだけど、父親をむざむざ殺させるわけにいかないから綱憲や米沢藩は八方手をつくすんだ」
「大河ドラマで赤穂浪士ものは多いんだけど、そんな理由で『赤穂浪士』(昭和39年)、『元禄太平記』(昭和50年)、『峠の群像』(昭和57年)、『元禄繚乱』(平成11年)で米沢藩はず〜と悪役(苦笑)」
悪役(?)の最上義光
「あと伊達政宗を主人公にした『独眼流政宗』(昭和62年)に敵役として山形藩の最上義光が出てくるんだけど、原田芳雄が演じる最上義光が何とも陰湿で…(苦笑)。それやこれやで大河で山形、あんまりいい思いしてないよなあ」
直江兼続サンって、実はよく知らないんですけど…。
智勇兼備の武将
「一般的にはそうかもね。でも知ってる人は知ってて(当たり前か)、カッコよくて、頭がよくて、しゃべりもうまい。大河でも、下克上の乱世に「義」と「愛」を貫いた智将として描かれるみたいだ」
カブトに「愛」のマーク、ありますもんね。
兜に「愛」あしらう
「あれは愛宕明神や愛染明王といった軍事的要素を取り入れたという説が有力で、今でいうラブとは関係ないんじゃないかな」
「ともあれ、幼少のころから聡明で利発だった兼続は上杉謙信に見込まれ、謙信の養子の景勝の側近になる。ここで謙信から軍事とか内政とか、いろんな教養なんかを学んだようだ。兼続が最初に歴史の表舞台に登場してくるのは『御館の乱』」
オタテの乱? 何なんですか、それ。
「御館の乱」から頭角
「上杉謙信って、ホラ、一生独身だったじゃん。だから実子がいなくて、そのくせ遺言もなしに突然病死しちゃった。謙信の死後、景勝と、北条家から来た景虎の2人の養子の間で跡目争いがおこったわけだ。当時の領国だった越後を二分する抗争になって、最終的には兼続が仕えてた景勝が勝利する」
無口な景勝を補佐
「戦後処理が面倒だったらしいんだけど、これを兼続がテキパキと片付けて頭角を現すようになる。景勝の側近ナンバーワンになって家臣団を統率するようになるわけだ。景勝ってメッチャ無口な人だったみたいで、弁舌さわやかな兼続が格好の補佐役だったんだろうね」ふ〜ん。
石田三成と親交
「その後、景勝は豊臣秀吉に臣従し、越後から会津120万石に転封になる。この中には米沢市も含まれてて、ここから山形との縁が生まれるわけだね」
「秀吉からも信頼されて豊臣の姓をもらったりしてる。もっとも豊臣なんて秀吉が勝手に創った苗字だから、あんまりありがたくもなかったかも(苦笑)。あと秀吉の家来だった石田三成とは歳も近くてウマがあったらしく、親交を深めたとされてる」
秀吉死す その時兼続は
「そうこうするうちに秀吉が死んで、豊臣政権を守ろうとする三成たちと、豊臣に代わって天下をとろうという徳川家康が対立することになる。それで戦いになるんだけど、この戦いを何というでしょう?」

関ケ原の戦い!
痛快無比の「直江状」
「ピンポ〜ン。さすが山形東高(苦笑)。関ケ原の戦いの前後が兼続の生涯のハイライトで、大河ドラマでも最大のヤマ場になるはず。景勝・兼続の主従は三成側の西軍につくんだけど、関ケ原の戦いの直接のきっかけを兼続がつくるんだ。それが『直江状』なんだけど、知ってた?」
し、知りません。何ですか、それ。
「いわば家康に対する挑戦状だ。読んでみるとクドクド長いんだけど、痛快きわまりない内容。以下、俺流に解釈してみるね」
上京してこいだとお〜、こっちは雪国で不便なんだよ。戦争の準備してるって難癖つけるけど、上杉をなめんじゃねえ。そんじょそこらの大名とは違うんだ。お前が悪いことしてんの、み〜んな知ってんだぞ。四の五の文句つけるんだったらかかってきやがれ、相手してやる
「とまあ、こんな感じでしょうか(苦笑)。これを読んだ家康は『生涯でこんなにバカにされたことはない』って激怒して上杉征伐に乗りだすんだけど、家康の権力におびえて有力大名もビクビクしてる中で、『直江状』と『直江状』を書いた兼続、カッコいいよね。俺、昔から兼続、大好き」。
カッコいいですね〜。しかも演じるのは妻夫木! キャー。

山形でも関が原
「……。で、上杉征伐から関ケ原の戦いへと突入していく。関ケ原って今の岐阜県にあるんだけど、関ケ原の山形版もあったって、知ってるよね。米沢の兼続が最上義光の守る山形に進攻してきたんだ。これは『慶長出羽合戦』と呼ばれている」
最上義光に苦戦
「兼続軍の3万人に対して最上軍は7000人。各地で小競り合いが行われたんだけど、なぜか大軍の兼続の方が苦戦してるんだ。最も激戦になったのが長谷堂城の攻防戦で、ここでも兼続は劣勢。生き方とかはカッコいいけど、どうも軍事的なセンスはなかったんじゃないかな」
上杉家存続に腐心
「長谷堂城を攻めあぐねているうち、本場の関ケ原で西軍が負けたという知らせが届き、退却せざるを得なくなる。戦後処理で西軍に属した上杉家は取り潰しの危機もあったんだけど、兼続はあの手この手で上杉家を守り、120万石から30万石の減封で許してもらう。それが上杉米沢藩というわけ」
その後の生涯は?
60歳の生涯
「ここから先は俺も詳しくは知らないんだけど、息子や娘が早く死んじゃって、56歳の時には奥さんと2人きりになっちゃったらしい。60歳で死ぬんだけど、ほどなく未亡人も死んで、直江家は断絶することになる」
なんだか時代を走り抜けた感じの人なんですね。