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山形城跡探訪/第14回 畑谷城(山辺町)

2021年6月25日
上杉軍攻撃で落城
山形城跡探訪/第14回 畑谷城(山辺町)

 慶長5年(1600年)9月15日、直江兼続(なおえ かねつぐ)は長谷堂城攻め陣所から上杉武将の秋山伊賀守に書状をしたためた。「一昨日に畑谷城を落とし、撫(な)で斬(ぎ)りを申しつけ首五百余討ち取った。その後、村々を焼き払い進軍した」。 
 1万数千とされる上杉軍は、畑谷城を落として城兵の首をとり、避難民を皆殺しにし、村々を焼き払って進軍した。城兵の首は上杉景勝(うえすぎ かげかつ)に送られ、晒(さら)されたのだろう。このような強硬な城攻めは珍しい。それは、これから進攻する最上軍へのみせしめと威嚇だったに違いない。

 上杉軍の士気は高く、兵は実戦経験豊かで強かった。徳川史観の影響で東軍に大義があったとされてきたが、近年は、豊臣秀頼を擁した毛利輝元が率いる西軍にあったとの説が主張されている。上杉軍進攻は最上義光を臣従させ、大義のもとに関東に出兵するためだったろう。
 しかし、兼続が書状を出した15日、関ヶ原合戦で東軍が大勝利、西軍は壊滅した。この情報が届いたのは9月末とされ、10月1日、上杉軍は鉄砲隊の活躍でようやく撤退したのだった。

 畑谷城跡はコンパクトでわかりやすい。最高所に小さな主曲輪があり、枡形虎口が開き二重横堀で守る。西側の尾根続きは、薬研堀(やけんぼり)の二条堀切(ほりきり)から二条竪堀(たてぼり)となる大空堀で遮断する。
 東下には竪堀などの大空堀と土塁で囲む方形の区画施設があり、兵の駐屯施設だったのだろう。この施設の北には広い平坦地があり、民衆の避難地だったと考えられる。
 畑谷城は山形の城の中でも極めて重要である。なによりも落城が慶長5年9月13日とわかり、枡形虎口、二重横堀、二条堀切、竪堀は、落城時にあった施設だ。
 出羽合戦の後、山形では戦国の絶え間ない戦争は終わった。かくして、畑谷城はうち続く戦争で発達した最上の城の到達点となる。 

 畑谷城跡は、説明板と遊歩道が整備され歩きやすい。その主曲輪から望む葉山、月山、朝日連峰の眺望が実に美しい。ぜひ歩いて欲しい。

保角 里志