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山形城跡探訪/第13回 砂越城跡(酒田市)

2021年5月28日
戦国は交流の時代

 庄内の古代中世史料を集めた「荘内史料集1―1」に、永禄7年(1564年)の「下国愛季(しものくに ちかすえ)殿宛て朝倉宗秀書状」が載っている。そこに「越前一乗谷で砂越也足軒(さごしや そくけん)が朝倉氏とたびたび参会・雑談し、朝倉氏は檜山城主(ひやまじょうしゅ)下国愛季と交誼のために、鉄砲一挺国友丸筒を託した」との興味深い記述がある。

山形城跡探訪/第13回 砂越城跡(酒田市)

 越前一乗谷に行き戦国大名の朝倉氏とたびたび参会・雑談した砂越也足軒は、庄内の砂越城主で、下国愛季は娘婿だった。また、文中の国友丸筒は、国友村での鉄砲生産の初見とされる。
 この前年、永禄6年の山科言継日記「言継卿記(ときつぐきょうき)」に、最上義守と義光父子の上洛が偶然に記録されている。そして近年、同書に「永禄元年に白鳥氏が上洛、飛鳥井(あすかい)邸で蹴鞠する」との記事が確認された。たまたま記されたこれらの一乗谷訪問と上洛は、戦国とは交流の時代でもあったことを物語る。

 砂越氏は、近郊に古代の飽海郡衙と飽海駅のあった要地・砂越に入部、室町時代に庄内の有力豪族に成長した。戦国時代には、大宝寺氏から入った砂越氏雄(うじかつ)が信濃守を受領、国主大宝寺氏と肩を並べるに至り、大宝寺氏と庄内の覇権争いを演じた。
 永正9年(1512年)の「東禅寺合戦(とうぜんじかっせん)」では、大宝寺方を千余討ち取る大勝利をあげたが、翌年、田川で大敗、氏雄父子が討たれた。跡を継いだ氏維(うじふさ)は、天文元年(1532年)に大宝寺城を攻め大勝利をおさめ、大宝寺氏は大浦城に本拠を移したとされる。
 その後、砂越氏は大宝寺氏と和睦し、戦国時代末期の当主・砂越也足軒は、最上川北の豪族衆のまとめ役として重きをなした。

 砂越城跡の主曲輪は中に諏訪神社がたち、東西75メートル、南北55メートルの方形に土塁が囲む。東側の長応寺にも土塁があり、南東約400メートル離れた日枝神社には大土塁と堀跡が残る。最上川北の雄族、砂越氏にふさわしい、大規模な城郭だった。
 城跡は城跡公園で歩きやすく、あわせて近くの荘厳な雰囲気をもつ飛鳥神社も訪ねてほしい。

保角 里志