山形城跡探訪/第12回 内町陣城(真室川町)
天正13年(1585年)、最上義光が鮭延典膳を攻略するために築いたのが内町陣城である。陣城とは、城攻めに造られた臨時の城を指す。

大正4年刊行の「鮭延城記」は、「陣場。天正の役で最上氏が鮭延城攻めに築いた陣所。西隅の大将の陣は、数十間の土手を廻し長囲の陣形が残る。また、看経森(かんきんもり)付近にも三十余間の土手があり、延沢能登守の延沢陣(のべさわのじん)と呼ぶ」と書く。
痕跡が残るかも知れないと思い、真室川町立歴史民俗資料館の梁瀬平吉館長に電話を入れてみたところ、案内してくれるという。こうして平成24年11月、鮭延城の北岸台地に見事な陣城跡を確認したのだった。
陣城跡は、鮭延城跡の北方約350メートルに延沢能登守の陣、約800メートルに義光の陣がある。延沢陣は、鮭延氏菩提寺の正源寺裏を登った道の南側で、南北に折れ虎口が開く。沢をへだて対峙する南の鮭延城に対し長い塁線を築き最前線の守りとする。
義光の陣は外郭と主郭からなる。外郭の西・北は沢で、南に約175メートル、東に約150メートル、北に約70メートルの土塁・空堀線を築き、東西約175メートル、南北約150メートルの方形区画を造る。最奥の主郭は東に張出し郭をもち、不整形で土塁は高く空堀は深く、南・東に折れ虎口が開く。ここで義光は鮭延城攻撃の指揮をとったのだろう。
この内町陣城は、鮭延典膳が大宝寺義興(たいほうじ よしおき)から派遣された城将だったので、庄内からの援軍に備えたと考えられるのに加え、白鳥氏・天童氏・細川氏を滅ぼし最上の主となった最上義光の力を誇示し、鮭延一帯の豪族衆を威圧し臣従を図る狙いがあったろう。
かくして、勇将の延沢能登守を先陣とした攻撃で、鮭延典膳は秋田仙北の大名・小野寺氏の仲介により義光に降伏、以後、庄内攻撃の先兵として働くこととなった。
杉林中に見事に残る陣城跡に道はない。地元の方に案内を頼み、鮭延城跡とともに歩いてほしい。