山形城跡探訪/第11回 小国城(鶴岡市)
前にも取りあげた庄内史の基本史料「来迎寺年代記(らいごうじねんだいき)」は、「大宝寺義氏(よしうじ)切腹。次に義興(よしおき)国主3年、東禅寺筑前と口論、兵乱国中起こる。山形義光出馬し大浦落城、中山玄蕃(なかやま げんば)国主2年。次に越国本庄繁長打入り、平安3年」と激動の庄内戦国史を書く。
天正11年(1583年)から6年の間に、大浦城が3回落城し城主が4人代わった。そのうち義興が降伏した時、本庄繁長の次男から養子に入った義勝(よしかつ)が逃避した城が、今回紹介する小国城である。

小国城は南出羽(山形県)と越後(新潟県)の境目(さかいめ)の温海にあり、多くの楯群の主城として重きをなした。
近世まで羽越間の往来は、日本海沿いの道が急崖と荒波のため通れなかったため、山間の道が中心だった。小国は旧温海町のほぼ中央南よりにあり、羽越を結ぶ交通の要衝として栄えた。
小国城跡は、高さ236メートルの高峻な楯山にある。小国集落の大きな城跡説明板から急な城道を登り尾根にあがると駒立場にでる。かつて馬小屋があり、城主はここまで馬で登った。
その上の最高所に本丸があり、東側下に二の丸、三の丸が重なる。本丸は、目の高さの土塁が全周を囲む。そして二の丸、三の丸は発達した桝形虎口をもつ。
また、本丸西側は四二軒屋敷と呼ばれ、屋敷区画跡と井戸が2つ残る。南に続く尾根は、二条堀切で遮断し、外側堀切は特に大きく深い。城跡の両斜面は極めて急峻で、登攀(とうはん)は困難である。
小国城は山形で慶長期以降に使われる丸呼称があること、発達した桝形虎口をもつことから、最上義光が慶長6年以降に造ったのだろう。
城跡は山形最大級の高さに遺構が良く残るとして、平成14年に国史跡に指定された。城道は下刈りされ歩きやすく、各所に説明板が立っていて遺構はわかりやすい。
小国集落は短冊形で中世の町並み景観を残す。鎮守の熊野神社は巨大な杉並木を通る石段上の朱塗りの雰囲気がいい。ぜひ町も歩いてほしい。