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山形城跡探訪/第10回 山形城(山形市)

2021年3月26日
義光が全面改造

 昨年逝去された義光文書研究の大家、武田喜八郎氏は2005年に新史料「6月12日付け山形殿宛て政宗書状」を報告、大きな波紋を投じた。

山形城跡探訪/第10回 山形城(山形市)

 書状は伊達政宗が最上義光に送ったもので「白鳥(しろとり)と氏家方生害の時、支援を考えたが程なく収まり止めた」とある。天正12年(1584年)、義光が山形城に誘い出した白鳥十郎を領内で待ち伏せして攻撃し、近臣・氏家氏が討ち死にする激戦で、十郎が討ち死にしたことがわかった。
 かくして「最上記(さいじょうき)」が書く、義光が十郎を山形城の枕元で一刀両断に殺した話は史実ではなかった。

 もうひとつ書状で重要なのは、宛てが「山形殿」とあり、山形義光と呼んでいることだ。天正12年以前に最上氏とある当時の史料は探せず、山形郷に入った斯波兼頼(しば かねより)の後裔は山形の地名をとって代々「山形」と名のったと考えられる。
 そして義光は天正12年に白鳥・天童・細川の各氏を滅ぼし、最上郡主となった翌年に「最上」を名乗り、慶長6年に57万石の大々名となってからは最上だけを称するようになった。

 村山民俗学会の市村幸夫氏が報告し話題となった、秋元本・伊藤本と呼ぶ最古の「山形城下絵図」がある。この絵図が貴重なのは、惣堀が山形城三の丸の起源を語ることである。
 惣堀は慶長5年(1600年)、強大な上杉軍の進攻に直面した時に構築されたのだろう。上杉軍から身と財産を守るため侍と町衆が協働し、城下町を囲む土塁と空堀を造ったのだろう。総延長は約6.5キロに及び、複雑に折れる塁線は山形城下町の総構えを示す。

 代々山形氏の居城だった山形城は、最上義光が惣堀内の町屋を家臣屋敷とする、三の丸への転換など壮大な城郭に全面改造した。その後、鳥居氏の改修をへて江戸時代に存続した。
 明治時代には陸軍用地となり、二の丸の虎口・土塁・水堀は江戸時代のままに残った。全国的に貴重な城跡で昭和61年に国史跡に指定されている。

保角 里志