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山形城跡探訪/第9回 大浦城(鶴岡市)

2021年3月12日
大宝寺氏の本城

 天正11年(1583年)3月、庄内地域を拠点に、近隣に激しい軍事攻勢を仕掛けて戦国大名の道をひた走っていた大宝寺義氏(だいほうじ よしうじ)が自刃した。
 庄内史の基本史料「来迎寺年代記(らいこうじねんだいき)」は、「義氏繁盛、土民辛労、前森謀反、大浦城四方より発火急に焼却、即ち義氏切腹」と書く。
 家老ともいう前森蔵人(まえもり くらんど)が主導した庄内一円を巻き込んだ反乱で、義氏は大浦城の八幡堂で酒盛り後に切腹したのだった。

山形城跡探訪/第9回 大浦城(鶴岡市)

 大宝寺氏は九州・少弐氏と同じ武藤氏の出自で、大泉荘地頭として庄内に入部した。室町時代には庄内産の名馬を幕府にしばしば贈り、将軍と直接関係をもつ京都扶持衆(ふちしゅう)となった。守護大名級の屋形号(やかたごう)を許され、出羽守も拝命し、まさに出羽国筆頭の地位にあった。
       
 義氏は「湊(みなと)・檜山(ひやま)合戦覚書」に「ことに名将」と記されている。しかし、出羽国主として由利と鮭延への相次ぐ軍事動員は、庄内豪族衆にとっては領土の見返りもなく、不満だったに違いない。前森蔵人の反乱は、次の家督に義氏の弟、義興を据えることを含め綿密な計画があったのだろう。

 山辺氏・寒河江氏・白岩氏を支援し、最上義光と激しく対抗した義氏の死は、義光の戦国大名への途を開いた。義光は翌年6月に谷地城主の白鳥十郎を謀殺、10月には強敵天童氏と名族細川氏を滅ぼした。さらに翌々年5月に鮭延氏を降参させ最上を支配化に置き、念願の庄内進出に入る。

 戦国期に大宝寺氏の本城だった大浦城跡は、東に菱津川が流れ、北と南には湿地が広がり要害となる台地突端にある。台地を土塁と大空堀で遮断し、平野を見下ろす最先端に義氏御殿のたつ主曲輪があった。
 その奥が二の曲輪で、八幡台と呼ぶ削り残し土塁で守られる。この八幡台こそが、義氏の自刃した八幡堂の場所と考えられる。
 城跡は大山公園となり、春は桜が美しい。城跡麓の大山上池・下池はラムサール条約登録湿地で、ハクチョウなど多くの水鳥が泳ぐ。特に上池はお盆のころには蓮の花が見事に咲き誇る。ぜひ訪ねてほしい。

保角 里志