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山形城跡探訪/第8回 清水城(大蔵村)

2021年2月26日
清水義親の悲劇

 慶長19年(1614年)1月、一代の英傑だった最上義光が69歳で死去した。家督を継いだ次男の家親(いえちか)は同10月、新庄領主の日野将監と尾花沢領主の延沢遠江守に命じ、弟の清水義親(よしちか)を攻撃する。清水城は落城、義親は敗死した。

山形城跡探訪/第8回 清水城(大蔵村)

 新進気鋭の最上氏研究者・胡偉権(こいけん)氏は論文で、義光は眼病で慶長6~7年ごろに政務を嫡男義康に任せ、当時、兄の一字をもらい康氏(やすうじ)と名のった義親は義康の側近だったと指摘する。
 同8年に政務に戻った義光は、徳川家康が征夷大将軍となり幕府を開くと、最上家存続のため豊臣秀頼の近習だった義康を殺害、家康・秀忠に仕えた家親を後継とした。

 敗死した義親は、義光の三男から斯波兼頼の曾孫、満久に始まる名族の清水氏7代の当主に入っている。2万7000石という広大な領土と、最上川随一の清水河岸(かし)を支配し川銭収入で富裕を誇った。おそらく、家親は殺害された兄義康に近かった弟義親の反乱を恐れ滅ぼしたのだろう。

 「新庄古老覚書」は義親を〈気弱成人〉〈悪逆無道の人〉と書く。父義光から広大な領土を預かり、最上川舟運随一の河岸を任せられた義親がそんな人物だったとは私にはとうてい思えない。
 義親の筆跡は見事とされ、清水集落を見下ろす台地には、誰が建てたかわからない江戸時代の義親供養碑が発見されている。そして、大蔵村の名は清水大蔵大輔義親の大蔵からとったものだ。このように、義親は郷土を輝かせた人物としてずっと記憶されてきたことがうかがえる。

 清水城跡は、かつて繁栄を誇った清水河岸跡の対岸、台地上突端にある。東に烏川(からすがわ)、西に藤田沢川(とうたさわかわ)が流れ、北は最上川に落ちる要害の地である。台地を大規模な水堀と土塁で遮断したなかに二の丸、その奥の大堀切で遮断したなかに広大な本丸を置く。築城は、出羽合戦の終わった慶長6年以降と考えられる。
 城跡は県史跡で村の宝として公園になっている。眼下に雄大な最上川が流れる本丸跡に立ち、悲劇の武将・清水義親をしのんで欲しい。

保角 里志