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山形城跡探訪/第7回 鮭延城(真室川町)

2021年2月12日
鮭延越前守の奮戦

 天正12年(1584年)10月、最上義光軍は強敵天童氏、次いで名族細川氏を滅ぼし、鮭延越前守(さけのべ えちぜんのかみ)が籠る鮭延城に向った。激しい攻城戦は、越前守が戦いの半生を近臣に率直に語った新史料「鮭延越前守聞書」で知ることができる。

山形城跡探訪/第7回 鮭延城(真室川町)

 延沢能登守(のべさわ のとのかみ)を先頭とする義光軍は数千、越前守軍は3百人ほど。寄手は討死が多かったが城兵は手ごわく、義光軍は雪が降り陣を引いた。
 翌4月初め、義光は再び総勢で鮭延城を攻撃した。大手は義光、搦手(からめて)は延沢能登守が攻め、越前守は先頭で戦いかろうじて守り切った。
 その後は籠城戦となり、仙北の大名・小野寺氏の仲介で越前守は義光に降伏する。降伏後、越前守は義光の庄内進出の先兵となって活躍した。

 越前守は幼少のころ、庄内の大宝寺義氏(たいほうじ よしうじ)に連れ去られて小姓となった。21歳の時、義氏の計らいで鮭延城に戻り、翌年、あいさつで大浦城(鶴岡市)に滞在中、前森蔵人(まえもりくらんど)の反乱に遭遇する。
 義氏の近臣だった蔵人が謀反を起こして大浦城を攻撃、義氏は城中で2人の子を刺し殺して自害して果てた。
 越前守は鬼神とも敬う義氏の後を追って死のうと激しく戦い、討死寸前のところで庄内侍、中村内記(なかむら ないき)兄弟に助けられた。義氏死後、家督を継いだ大宝寺義興の配慮で鮭延城に戻り、義光軍の攻撃を受けたのだった。
 大浦城での死地体験こそが、体格がよく、牛のように動ぜず死を恐れないで戦う勇将と評価された鮭延越前守を生んだのだと、私は思う。

 鮭延城跡は、真室川に落ちる断崖絶壁上の台地にある。南は薬師沢、北は近江沢の谷が入りこみ、狭くなる東を三条堀切と大土塁で遮断する。その内部は広く、奥に鮭延氏御殿があった。家中屋敷の内町から登る薬師沢に大手門、近江沢に搦手門があったのだろう。
 城跡には駐車場と案内板が整備され、遊歩道もあってハイキング感覚で城歩きができる。近くには江戸後期の湯殿山大日坊の総門を移築した壮大な山門がたつ鮭延家の菩提寺の正源寺があり、鮭延一族の墓地もあるのでぜひ訪ねてほしい。

保角 里志