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山形城跡探訪/第6回 小国城(最上町)

2021年1月22日
小国日向守の居城

 天正12年(1584年)、最上義光軍は天童城を落とし、細川氏が支配する小国に向った。
 「奥羽永慶軍記(おううえいけいぐんき)」は「天童に味方したもの残らず退治す。小国領主細川三河守も天童頼久舅のため退治す」と記す。また「天童軍記」には、「10月10日天童城を落とし、19日細川氏を奥州に追った」と書かれている。降将の延沢氏等が加わり意気盛んな数千の義光軍に対し、数百人の細川軍は瓦解したのだろう。

山形城跡探訪/第6回 小国城(最上町)

 通説は、義光軍は山刀伐(なたぎり)峠を越え「万騎(まき)ヶ原の戦い」で大勝利を得たとする。しかし、山刀伐峠は急峻で戦国期に馬は通れず、義光軍の進攻路は背坂(せなさか)峠と牛房根(ごぼうね)峠だろう。万騎ヶ原もまきのはら(牧の原)の牧場地名で、合戦の話は創作だと思う。

 義光はこれに先立つ同年6月に白鳥(しろとり)氏と寒河江氏、そして10月に天童氏と細川氏と、室町時代から続く有力豪族を滅ぼした。過去に最上では合戦は頻発したが、豪族が滅亡することはなかった。
 天正12年は義光にとり、戦国大名への確かな道を開く画期的な一歩を踏み出した年だった。
 細川氏が去った小国城には、討伐に功績をあげた蔵増(くらぞう)氏が入り、小国日向守(ひゅうがのかみ)と名乗った。日向守は小国城を本拠に1万7千石の最上氏重臣として活躍したが、元和8年(1622年)の最上家改易により佐賀藩鍋島家に預けられた。小国城跡に残る多くの遺構は元和8年のものになる。

 小国城跡は向町の絹出川対岸にあり、北は断崖絶壁、南と西に階段状に曲輪(くるわ)が重なる。東尾根を二つの大堀切で遮断した最高所に城主御殿がある本丸、下に二の丸と二つの家老屋敷があった。
 中腹と山裾には、北に続く斜面を遮断する大竪堀(たてぼり)の中に曲輪群があり、家臣団の屋敷が置かれた。山麓は大外堀で守る。特徴である階段状曲輪は細川氏由来とみられ、竪堀と外堀は小国氏が新造したのだろう。

 春の小国盆地は美しい。四方を囲む山々は白い雪を残し、木々のまばゆい緑のなかを清流小国川が流れる。地元の方が整備した遊歩道と案内板もあり、春に訪れたい。

保角 里志