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山形城跡探訪/第5回 延沢城(尾花沢市)

2021年1月8日
関ケ原後 延沢氏が築城

 延沢城跡は銀山温泉への途中にある。延沢の景観は越前朝倉氏の一乗谷(いちじょうだに)と似ている。延沢集落に短冊形(たんざくけい)の町割、中央背後の古城山(おしろやま)に城跡遺構があり、かつての山城と城下町の面影が色濃く残る。

山形城跡探訪/第5回 延沢城(尾花沢市)

 常盤(ときわ)中学校脇から広い七曲(ななまが)りの城道を登ると連続する枡形(ますがた)の虎口(こぐち)に入り、その先に県記念物の大杉がたつ広大な本丸跡がある。その北下が三つの曲輪、東下が二つの曲輪が重なる二の丸跡で、北先端は二つの大堀切で尾根を遮断している。この本丸に延沢氏御殿、二の丸に重臣屋敷があった。西山腹は三の丸跡で、曲輪群に家臣団の屋敷が置かれた。

 連続枡形虎口は慶長期に広まったとみられる最新式の造りで、丸の呼び名は山形では慶長期頃に始まった。短冊形の町割は人工的な町だったことがうかがえる。
 関ヶ原の合戦があった慶長5年(1600年)後、戦争への巨大エネルギーは城造りに転じたとされる。延沢城と城下町も、それまでの城と町を壊し、慶長6年以降に新しく造られたのだろう。

 延沢城主は小田嶋庄の地頭・小田嶋長義の末裔という延沢氏で、能登守満延の時に発展した。能登守は力持ちで知られ、「延沢軍記」によれば、天童氏を攻撃した最上義光軍に対し、鉄棒を振り回して逃散させた。義光は領土保全と能登守の子息に娘を嫁がせる約束で天童氏から離反させ、それが天童氏滅亡の原因になったとされる。
 能登守は義光から尾花沢・大石田の2万石を与えられ、重臣に抜擢されたが、秀吉に大力を披露するため上洛した天正19年(1591年)に京都で急死した。その跡は子・遠江守光昌が継ぎ、延沢城と城下町を造った。

 元和8年(1622年)、最上氏改易により延沢氏は肥後に去ったが、伊達領に接する延沢城は東根城とともに特別に残された。廃城は寛文7年(1667年)。
 国史跡に指定されている城跡は案内板や遊歩道が整備されていて初心者でも歩きやすい。七曲りを登り、珍しい連続枡形虎口をみて、本丸跡に聳えたつ樹齢千年の大杉に出合ってほしい。

保角 里志