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山形城跡探訪/第4回 高楯城

2020年12月25日
上杉軍侵攻を阻止

 高楯城跡は、上山市街から西方に三角形にみえる虚空蔵山(こくぞうさん)にある。山頂に主曲輪(しゅくるわ)、山腹に北平曲輪(きただいらくるわ)と白土平曲輪(しらつちだいらくるわ)がある。

山形城跡探訪/第4回 高楯城

 城の南斜面は険しく、北は河原期川(かわらごがわ)の深い渓谷。敵が攻めるなら東山麓と西尾根続きだけで、そこに城を守る厳重な防御施設を配した。
 北平曲輪は、東山麓に巨大な空堀、登り口に竪堀(たてぼり)と横堀、直下には二重の横堀をめぐらせて敵を遮断する。白土平曲輪は西尾根続きに深い二重の横堀を掘り、曲輪の端に土塁を置く。主曲輪は折れ虎口(こぐち)にし、横矢がかりを狙っている。

 高楯城を造ったのは里見民部だった。城の特徴は竪堀や横堀で、最上義光が伊達氏や上杉氏と抗争した時代から使った新技術であった。
 同じ堀は、慶長5年(1600年)の「出羽合戦」で落城した畑谷城跡にもあるので、高楯城は上杉軍進攻に備えた戦争用の臨時の城と考えられる。ここには天然の要害で守られた上山氏の詰め城があったとされ、それを大改修したのだろう。
 出羽合戦時、父で城主の里見越後は山形城につめ、上山方面の防衛は民部が担った。民部は高楯城を本拠とし、中山口から進攻した上杉軍を奇襲、大将の本村造酒丞(もとむらみきのじょう)はじめ兵多数を討ちとる大勝利をえた。これは、劣勢の義光軍のなかでの唯一の勝利であった。
 
 民部といえば天正2年(1574年)、義光と父の義守が争った「最上の乱」での働きも忘れてはならない。
 義守には大半の国人衆や女婿の伊達輝宗らが味方したが、義光方は里見氏などわずかだった。民部は、伊達軍に夜襲をかけるなど勇敢に戦って山形への進攻を上山で阻止し、義光の窮地を救った。

 民部は勇敢で優れた武将だったに違いない。ところが軍記物「最上記(さいじょうき)」は、上山城主だった上山満兼と兄の内蔵介を殺して城を奪ったと書く。だが当時の上山城主は父の越後のはずで、まったくの創作だと私は思う。
 おそらく、義光が長子・義康を廃嫡した事件で、民部が義康に味方して義光の深い恨みをかったので、あしざまに書かれたのだろう。

保角 里志