徹底して山形に密着したフリーペーパー

山形城跡探訪/第3回 天童城

2020年12月10日
山形最大級の山城

 天童城跡は市民憩いの場である舞鶴山にある。広さは南北約1.2キロ、東西約1キロと、県内最大級の山城だ。

山形城跡探訪/第3回 天童城

 山頂の愛宕神社の西側が主曲輪(しゅくるわ)で、城主・天童氏の御殿があった。その下の東西南北の尾根に切岸を削る曲輪が階段状に重なる。その緩い斜面の各所に、敵の登りを防ぐための細長い帯状の多重帯曲輪(たじゅうおびくるわ)が置かれている。
 この階段状曲輪と多重帯曲輪こそが天童城跡の最大の特徴で、曲輪の数はおそらく全国の城で最多クラスだろう。
 大手道は南で、七曲りが終わると愛宕神社参道から西に迂回させ、上方主曲輪から横矢(よこや)がかりを可能とする。防御をよく考えた大手道である。

 天童氏は、成生荘(なりうのしょう)の地頭という里見氏に斯波兼頼の孫・頼直が養子に入り、天童氏と称したのが始まりとされる。名門里見氏・斯波氏の出自(しゅつじ)、最上氏と並ぶ出羽きっての家柄で、戦国期には天童以北の豪族の旗頭となり、大きな勢力を誇った。
 天正2年(1574年)、最上義光が父・義守と争った「最上の乱」では、天童頼貞が周辺の豪族衆を率い、義守の娘・義姫が嫁いだ伊達輝宗と義光を攻め、義光を窮地に追い込んでいる。
       
 天正7年に頼貞は壮年で死去、12歳の頼久(後の頼澄)が継ぐが、当主の資質が家運を左右する時代にあって天童氏は次第に弱体化していった。
 義光は天童氏の頽勢を見逃さず、天正12年、強敵の白鳥氏を滅ぼし、天童氏家老という成生氏、豪勇の延沢氏などを離反させて全軍総攻撃をかけ、天童城を落とした。敗軍の将となった頼久は母方の実家、奥州国分氏を頼って落ち延びた。 

 天童城跡のおびただしい切岸・曲輪の大半は、義光との合戦に備えた備えとみることができる。それらは戦国期、天正9~12年ごろに造られたと推測され、天童城の巨大さは、天童氏の権力がそれだけ大きかったことを示している。

 天童城跡歩きは早春がいい。歩くと、遊歩道のまわりに崖と平坦地がいたるところに見える。これこそが戦国期天童城の切岸と曲輪だ。

保角 里志