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山形城跡探訪/第2回 長谷堂城跡

2020年11月27日
上杉軍との激戦の地

 慶長5年(1600年)9月13日、直江兼続率いる2万余の上杉軍が荒砥口から進攻、畑谷城をわずか2日で落とした。
 翌14日、菅沢山(すげさわやま)に本陣を置き、義光がいる約8キロ先の山形城と対峙する。山形城が攻撃先となるのは歴史上初めてのことだった。

山形城跡探訪/第2回 長谷堂城跡

 上杉軍は山形城攻撃前に、挟撃されるのを避けるため南東約1キロの長谷堂城を落とす必要があった。長谷堂城への攻撃開始は15日からで、この日は、まさに歴史を決める関ヶ原の戦いの当日だった。
 約1万の義光軍に比して2倍以上、しかも戦国最強とうたわれる上杉軍は、小城相手と初めは楽観的だった。対する長谷堂城主は最上きっての智将・志村光安(あきやす)、援軍に猛将の鮭延(さけのべ)秀綱が入る。

 24日の上杉軍総攻撃に対しては、義光が先頭に立って徹底抗戦、本陣間が深い水田だったことも幸いし、かろうじて守りきった。そして30日、関ヶ原での東軍圧勝の報が届く。翌日、上杉軍の必死の撤退が始まり、義光の兜を射た鉄砲隊の働きなどで上杉軍はなんとか米沢に帰還した。
 この長谷堂城合戦は、山形城を守り、上杉軍の大軍を山形に釘づけにして東軍勝利に貢献、ひいては家康の天下を開くものだった。

 歴史的な激戦の舞台、長谷堂城跡は平地から高さ約80メートルの城山で、山頂に中心の主曲輪(しゆくるわ)がある。志村と鮭延が指揮をとった場所だ。
 上杉軍本陣側には、敵が登れないよう10メートルもの山形最大級の高い切岸(きりぎし・人工の崖)を削っている。下は広大な帯曲輪(おびくるわ)が二つ回り、西を薬研堀(やげんぼり)の二重横堀で守る。城兵駐屯地だろう。
 主曲輪と帯曲輪に拳2つ大の礫石塚がある。白兵戦用に集めた武器だ。これら一連の備えは、予想された上杉軍の進攻に備えた大改造だろう。
 南・東側は、領主志村氏の遺構、階段状曲輪が重なる。これは戦国最上の城の特徴だ。

 城歩きは各所の説明板を案内に、最上三十三観音・長谷堂観音参りもできて楽しい。城の植物、シャガの白紫花が曲輪一面に咲く春がお勧めだ。

保角 里志