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山形城跡探訪/第1回 連載を始めるにあたり

2020年11月13日
 山形に、城跡はどれだけあるのだろうか。県教委が平成7年から9年に刊行した「山形県中世城館遺跡調査報告書」に1211とある。その後の新発見も多く、現在、総数は1500ほどになるだろう。
山形城跡探訪/第1回 連載を始めるにあたり

 私たちが里や近くの山でみかける地名の「たて(楯・館)」や「じょう(城)」は、ほとんどが城跡だ。かつて各地に群がりあった平城(ひらじろ)は、今はほとんど消失したが、山城や丘城は堀跡の空堀(からぼり)、盛られた土塁、平坦とした曲輪(くるわ)などの遺構がみられることが多い。
 数百年前に造られた大土木工事だったため、今も地表面に遺構をとどめ、地域の歴史の生き証人となってくれているのである。

 山形の城のほとんどは戦国時代に造られた。中央(室町幕府)の権力は衰えて豪族への支配力が弱まり、戦国の名のとおりたえず戦争があった。
 各地の豪族は自立し、村は自衛権を持っていたとされる。まさに戦国時代とは、地域それぞれが自立した地方分権の世界でもあったと評価されている。
 合戦は相手領地への焼き働き、刈り働きで始まった。敵地の民家を焼き、収穫近い作物の収奪がおこなわれたのだ。
 それだけではない。参加した農兵たる雑兵(ぞうひょう)の狙いは物取り、人狩りで、物の略奪と人さらいが横行した。そのため民衆は物をもって山に逃げる「山あがり」をしたという。他領地での戦争が主だった武田信玄の甲斐国の領民は豊かだったというが、それは戦争地での略奪によるものだったとされる。

山形城跡探訪/第1回 連載を始めるにあたり

 山形でも戦争が日常化し、各地の豪族は、領民の避難所ともなった防衛のために城を築いた。逃げ込む豪族の城から遠い村は、村人の避難所として村の城を造った。
 それが、各地の「たて」や「じょう」で、その役割は絶え間ない戦争から身を守る、民衆の自衛拠点でもあったと考えられる。

 ここで戦国の城と近世の城との違いを、天童城跡と山形城跡で述べておこう。
 天童城跡は市街の中心部の舞鶴山にあり、最上氏と覇権争いを演じた天童氏の本城だった。山形最大級の山城で、戦国時代の天正12年(1584年)、最上義光の激しい攻撃をうけて落城した。
 そのため、戦国の城遺構、切岸(きりぎし・人工的に削った崖)と平坦にした曲輪が各所に残る。土造りの階段状に重ねる曲輪が特徴で、これこそ戦国最上の城の特徴とされる。
 他方、近世の城の代表は、霞城公園にある山形城跡だ。二の丸は広大な水堀が土塁を囲み、出入り口の虎口(こぐち)は見事な石垣である。土塁上には、塀に葺いた瓦片(かわらへん)が散らばる。丸の呼び名、石垣、瓦葺き建物は、山形では豊臣秀吉の時以降の近世の城の特徴とされる。

 山城歩きは楽しい。山城といっても、当時の村の裏山に造られた、そう高くない里山が多い。登ると、遺構がきちんと残っており、歴史を実感でき興味がつきない。そして森林浴のなか、健康と体力つくりにもなる。
 これから皆さんを、山形激動の歴史を語る代表的な城歩きにご招待しましょう。城の歴史や特徴を中心に筆を進めていくので、各城の概要と縄張り図は、私が以前タウン誌「街角」に連載していた寄稿文を中心に7月に上梓した「山形の城を歩く」(書肆犀、2000円)を併せて読んでほしい。


山形城跡探訪/第1回 連載を始めるにあたり

保角 里志

●(ほずみさとし)1950年生まれ。東根市在住。山大卒後、県庁に勤めるかたわら、休日に各地の城跡調査を行う。中世城郭研究同人、日本考古学協会員。著書に「南出羽の城」「山形県最上地方の城と楯」「山形の城」「最上義光の城郭と合戦」など。