徹底して山形に密着したフリーペーパー

蔵王ファクトリー(山形市)社長 木村 雅英さん

2019年10月25日
木村 雅英(きむら・まさひで) 1949年(昭和24年)大阪市生まれ。近畿大学(東大阪市)農学部を卒業後、72年に食品製造・卸の加藤産業(兵庫県西宮市)入社。一貫して開発・製造畑を歩み、90年に子会社で果実缶詰の製造を手掛ける和歌山産業(東根市)に常務として転籍、96年社長就任。2016年に退任するまでの間、同社の売上高を9億円から45億円まで飛躍的に拡大させた。退任直後に実質1人で蔵王ファクトリーを立ち上げ、「山形育ち」をキャッチフレーズに県産食材を使ったゼリー、ジャム、ジュースの販路拡大に奔走している。70歳。
蔵王ファクトリー(山形市)社長 木村 雅英さん

無縁だった山形で社長業20年
  残る人生、起業で恩返しを

――前半生はコテコテの大阪人なんですね。
 「そうそう。かれこれ30年も山形にいてるけど、言葉だけは直されへんかったなあ(笑)」
――見ず知らずの山形に来られたのって?

年商9億円を45億円に!

 「和歌山産業は昭和の時代は13億円前後の売上高があったんやけど、平成に入ると安い輸入品に押されて10億円以下に落ち込むようになってた。それでボクが立て直しを命じられたわけやね」
 「会社に来てみたら、誰もが『これまでのやり方ではアカン』『次の手を打たんとまずい』と思いながらも途方に暮れてた感じやった」
――それで。
 「ボクは親会社から派遣されたんやけど、まず取り組んだのは親会社からの〝自立〟。製造だけに特化して、後は親会社に一切を任せきりという業態では将来はないと」
 「手始めに新分野のゼリーを手がけることにして、幸いにもこれが当たった。勢いをつけて自社ブランド『蔵王高原農園』を立ち上げ、営業マンを採用して消費地に営業拠点も置いた」
 「親会社のライバルにも売り込みをかけた。一連の改革は親会社で物議も醸したけど、とにかく20年の在任中はがむしゃらに頑張った。やり切ったという達成感はある」

妻の介護で退任

――退任されたのが66歳。若すぎませんか?。
 「実は退任の原因は妻がサルコイドーシスという難病に侵されて…。ボクは介護も疎かにしたくなかったから、仕事との両立で精神的にも肉体的にも限界に達して、会社にこれ以上は迷惑はかけられないと。退任直後に妻は死んだんやけどね」
――そのショックから立ち直って、たった1人で起業されるんですね。

66歳、たった1人で起業

 「振り返れば40歳の時、妻と子ども3人を連れて山形に来たのも何かの縁。子どもたちは巣立ち、妻に先立たれてボクだけが山形に残された」
 「長年勤めた会社は辞めたけど、まだ10年は現役で仕事をやれる自信はある。これまでの経験や人脈を生かし、何か山形に恩返しがしたいと会社を立ち上げたわけや」 
――でも工場とかはないわけでしょ?
 「ないけど、製造ノウハウはファイルに蓄積してあるから、旧知の協力工場にお願いしてる」

コンクール入賞も

 「会社の理念は山形の食材の素晴らしさを全国に広めること。まだ4年目やけど、初年度に『やまがた土産菓子コンテスト』、今年は『やまがたふるさと食品コンクール』で入賞も果たした」
――お互い、不思議な縁で山形に骨を埋めることになりましたね。