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~最上三代~その栄光と蹉跌/謎多い2代家親の死

2019年10月25日
 最上義光の次男で、山形藩の第2代藩主となった家親は元和3年(1617年)3月6日に死去した。36歳だった。
 家親の死は謎めいているが、彼の死に端を発した跡目相続騒動こそ最上家改易の原因だった。
~最上三代~その栄光と蹉跌/謎多い2代家親の死

 そもそも家親がどこで死んだのかがはっきりしていない。山形城下で死んだとする説と、江戸で死んだとする説がある。山形城下で死んだとする説を検証してみよう。
 徳川幕府の正史とも言える「徳川実紀」には、「六日、出羽国山形城主最上駿河守家親が死去したと連絡があった。今年は山形にいて、猿楽を見ながら急死した。人みなこれをあやしんでいる」とある。要するに、山形で急逝したが不可解な死に方をしたというのだ。 家親は長らく徳川秀忠の近習を務め、諸事の取り次ぎを担当する奏者という幕閣メンバーの一人だったので、「徳川実紀」の記事は編纂物とはいえ尊重に値する。

 死因に関しても諸説ある。江戸時代前期に編集された、いわば諸家に関するゴシップ集ともいえる「諸家深秘録(しゅけしんぴろく)」では、鷹狩りの帰途、城西にあった楯岡甲斐守(たておかかいのかみ)の邸で饗応を受け、帰城するとまもなく苦しみだして絶命したとする。
また、新井白石が書いた諸藩の逸話集である「藩韓譜(はんかんふ)」には、能楽を催し、食事をした直後に腹痛をおこして死去したとする。さらに侍妾のために寝室で殺されたとする説まである。

 「最上記追記」という史料によれば、楯岡甲斐守宅で饅頭を食べたが、気分が悪くなって帰城した。その後、血を吐いて死去した。そこで、山野辺右衛門(やまのべえもん)、鮭延越前(さけのべえちぜん)など4~5人が登城し、家親の死骸を取り囲み、余人を近づけず、局も無理に引き離されて隣室に押し出された。
 その後、家親死去の報を聞いて一門や一族諸士もあわてて登城してきたが、一門の衆にさえ遺体をみせず、早速その夜のうちに慶長寺(後の光禅寺)に運び、火葬にしてしまったという。
 あたかも山野辺らによって謀殺されたかのような書きぶりである。
 それでは江戸で死んだとする説はどうであろうか。次回に述べよう。


~最上三代~その栄光と蹉跌/謎多い2代家親の死
松尾 剛次 

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授、教授を経て山形大学都市地域学研究所名誉所長。