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~最上三代~その栄光と蹉跌/家親、短命なかりせば

2019年6月14日
 既に述べてきたように、山形藩主2代目の家親は2代将軍・徳川秀忠の近習として13歳から33歳まで江戸詰めだった。36歳で急死したことを考えれば人生の大半が江戸暮らしで、それもあって山形には資料は少ない。
~最上三代~その栄光と蹉跌/家親、短命なかりせば

 逆に、中央の資料から家親の活動を知ることができる。そこには秀忠の有能な側近の一人であったことがうかがえ、秀忠の権力拡大とともに家親の役割も増していった。
 慶長10年(1605年)には24歳で従5位下侍従と“殿上人(てんじょうびと)”になっているが、山形藩主初代の父・義光がその地位に就いたのは45歳だった。
 義光は連歌に堪能な文化人であったことが知られているが、家親もその才能を引き継いだ教養人だったようだ。毎年、正月2日には江戸城で謡曲初めが開催されたが、家親は慶長15年(1610年)以来参加し、将軍の右側の筆頭に座していた。その近さからも秀忠のまさに近習であったことがうかがえる。

 同年、薩摩藩主の島津家久が琉球の尚寧王(しょうねいおう)を率いて江戸城で秀忠に拝謁した際、家親は奏者の役を務めている。奏者とは将軍と拝謁者の取り次ぎ役で、大目付・目付と並ぶ枢要な役職である。
 この時だけではなく、注目すべきは家親がその後も筆頭貴族の摂家らが将軍と対面する際の奏者を勤めていることである。家親は有能な人物と認められ、秀忠の側近とか。    

 歴史を語るうえで「たら」「れば」は禁句だが、敢えて家親がもう少し長生きしていたとすれば、中央人脈を駆使して山形藩の運命を大いに切り開くことができたのではないだろうか。


~最上三代~その栄光と蹉跌/家親、短命なかりせば
松尾 剛次 

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授、教授を経て山形大学都市地域学研究所名誉所長。