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~最上三代~その栄光と蹉跌/2代目・家親の母親は?

2019年5月24日
 これまで最上義光の2男・家親について述べてきたが、実は家親に関する研究や史料は乏しく、家親の実像はいまだ明確ではない。筆者も手探りで研究を進めているというのが正直なところだ。
 家親の母親に関しても、義光の正妻である大崎殿とする説と、天童頼貞の娘(以下、天童氏)とする説がある。
~最上三代~その栄光と蹉跌/2代目・家親の母親は?

 天竜氏説は、最上家とゆかりの深い「宝憧寺(ほうどうじ)本最上系図」や「最上・天童・東根氏系譜(菊地蛮岳旧蔵」の「最上系譜」に記載されている。
 他方、天童町史編纂委員会編「天童の生い立ち」によれば、清水氏の菩提寺である興源院(大蔵村)の過去帳に「七代公御生母天童頼貞公女、天正十年十月十二日、花清宮公大禅定尼」とあり、義光の3男・清水光氏(あきうじ)の母である天童氏は天正10年(1582年)に光氏を生んだ後、山形城で逝去したとする。
 このことから、天童氏は清水光氏の母で家親の母ではなく、消去法で家親の母は大崎殿と考えられてきた。

 だが実際に筆者が興源院で調査したところ、どこにも前述の記載はなかった。その一方で「最上源代々過去帖」には、家親の実母である高月院殿妙慶禅定尼(こうげついんでんみょうけいぜんじょうに)は慶長3年(1598年)12月14日に亡くなったと記載されている。他方、同じ過去帖には大崎殿は文禄4年(1595年)の豊臣秀次謀反事件に連座して駒姫が殺された直後に死去したと記されている。

 これらを総合的に判断すると、家親の母親は大崎殿でなく、天童氏であったと考えられる。


~最上三代~その栄光と蹉跌/2代目・家親の母親は?
松尾 剛次 

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授、教授を経て山形大学都市地域学研究所名誉所長。