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~最上三代~その栄光と蹉跌/内政に励んだ家親

2019年4月26日
 これまで最上家親についてはその急死ばかりが注目され、家親の事績に関しては等閑(とうかん)に付されてきた感がある。

 確かに治世期間は慶長19年(1614年)2月の襲封(しゅうほう)から元和3年(1617年)3月の急死まで、わずか3年ほどに過ぎない。とはいえ徳川家康、秀忠という江戸幕府将軍に愛された人物であったことは確かで、将軍家との強いパイプをもった領主であったと評価できる。
 惜しむらくは、領国である山形藩にはほとんど強い結びつきを持たなかったというところだろう。例外といえるのは寒河江地域で、慶長7年(1602年)以降は寒河江領主として、武士たちに領地を与えるなどして主従関係の構築に励んではいた。実際、慶長7年4月に菅井氏に土地を与えた証文などが残っている。

~最上三代~その栄光と蹉跌/内政に励んだ家親

 とはいえ、襲封後に一栗兵部(ひとつくりひょうぶ)の反乱が起こり、異母兄弟の清水光氏を滅ぼすなどしたために、最上家臣団内の亀裂は極めて大きくなり、領内をまとめるために家親は種々の対策をとったようだ。
 その重要な対策の一つに領国内の巡検がある。おそらく大坂の陣が静まった後であろうが、秋田由利郡、庄内を含めて57万石の領内を見て回ったようである。

 最上家改易後に庄内に入った酒井家は、失職した最上家旧臣の多くを再雇用した。その際、酒井家に仕えることになった1人である中野豊後(なかの ぶんご)が提出した書き上げには以下のように記されている。
 意訳すると、「家親が国巡りをした時、由利の本荘豊前守の領地で、鉄砲奉行の我孫子作内(あびこ さない)が訴訟を起こし、訴訟担当奉行の坂野紀伊守(さかの きいのかみ)、安食大和守(あじき やまとのかみ)に斬りかかる事件が起こった。中野豊後は我孫子を組止め、手負いを受けたが、その場で我孫子を討ち止めた。その功績に対して、家親は小袖を褒美(ほうび)としてくれた」 
 この記事の内容からは、家親の藩主としての領内巡検が、最上領の最北の地である由利の本荘豊前守の所領にまで及んでいたことがわかる。家親は領内巡視を行うなど領内掌握にも努めていたのだ。


~最上三代~その栄光と蹉跌/内政に励んだ家親
松尾 剛次 

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授、教授を経て山形大学都市地域学研究所名誉所長。