徹底して山形に密着したフリーペーパー

~やまがた~藩主の墓標/連載を終えて

2016年12月23日
脈々と息づく山形の歴史
~やまがた~藩主の墓標/連載を終えて

 2014年7月にスタートし、前回が最終回だった「やまがた藩主の墓標」。皆さまのご愛読に感謝するとともに、2年半の連載を振り返ってみたい。

 江戸時代当初、山形の大名は米沢藩の上杉家と山形藩57万石の太守・最上家しかいなかった。
 だが最上家は江戸初期に改易(かいえき)され、その領地は分割されて新たな大名がやって来た。その中で明治維新まで存続したのは庄内藩の酒井家と新庄藩の戸沢家だけだ。
 最上家改易後の山形藩はその後もどんどん縮小され、あちこちに天領も生まれた。一時的に存在した小藩や、他国の大名の飛び地もあって、幕末には非常に複雑な地図となった。
 最上家が存続していたら、今はどんな山形県になっていたのだろう。
    
 最上家改易の理由は、12歳で3代藩主となった義俊(よしとし)を認めない家臣団の反抗とされる。最上家の実態は戦国以来の小領主の連合体で、義俊に反抗した領主の1人に鮭延秀綱(さけのべ ひでつな)がいる。
 鮭延は後に江戸に出て、日雇い仕事で稼ぐ家臣に養われ「乞食大名(こじきだいみょう)」と嘲(あざけ)られたが、戦国の武士らしいその生き方には清々(すがすが)しさを覚える。

 連載を書くために改めて調べ、最も感銘したのは、やはり米沢藩の上杉鷹山(うえすぎ ようざん)だった。鷹山の偉大さは書き尽くせない。その一方、鷹山を養子に迎えた8代藩主・重定(しげさだ)も忘れられない。
 鷹山の改革に反対する重臣たちが城に押しかけた「七家騒動(しちけそうどう)」に際し、その場に駆けつけて重臣たちを叱責(しっせき)し、鷹山を救ったのが重定である。
 財政逼迫を招いた自分の責任には無頓着(むとんじゃく)な人だったが、重定の援護なしに鷹山の改革は進まなかったに違いない。

~やまがた~藩主の墓標/連載を終えて

 戊辰戦争後、家臣とともに鹿児島へ行き、西郷隆盛に学んだ庄内藩主・酒井忠篤(ただずみ)には当時10代だった若者の一途さを感じた。鶴岡市の致道(ちどう)博物館長・酒井忠久さんは直系。藩主家が現在も領国におられるのは珍しい。

 幕府から流罪を命じられた沢庵(たくあん)禅師のため「春雨庵(はるさめあん)」を建てるなど、誠心誠意を尽くして庇護(ひご)した上山藩主・土岐頼行(とき よりゆき)の気骨も賞賛に値する。
 沢庵はその後、江戸で東海寺(とうかいじ)を創建した。そこに寄り添うような春雨寺が土岐家の菩提寺で、今も大名の面影を残す墓所がある。

 山形県内にも米沢の上杉家、新庄の戸沢家、鶴岡の酒井家のような立派な墓所があるが、東京にも大名の墓がある。領国へは連れ帰れない正室のためにも江戸に菩提寺が必要だったからだ。
 その中で、山形藩主だった奥平家の墓地は東京に現存する大名墓所でも屈指の保存状態だ。一方で関東大震災や戦災、高度経済成長時代の都市計画による寺域削減で、今では墓石1基しかない場合も多い。

 以前、そうした墓を一つひとつ訪ねたことがある。墓標にはそれぞれの家の歴史と藩主の人生、そしてそれを取り巻く人々の思いまでもが刻まれていると感じた。
 そんな思いから、1人でも多くの人に脈々と息づく山形の歴史の面白さを知ってもらいたいとこの連載を紡いできた。来し方を知ることは、行く末を歩むうえでのヒントになるはずだから。


~やまがた~藩主の墓標/連載を終えて
プロフィール
加藤 貞仁(かとう・ていじん)
1952年福島市生まれ。明大文学部卒業後、読売新聞社に入社。秋田支局、経済部、生活情報部などで記者生活を送り、97年同社退職、フリージャーナリストに。著書に「とうほく藩主の墓標」「戊辰戦争とうほく紀行」「海の総合商社 北前船」「箱館戦争」などがある。