~やまがた~藩主の墓標/(最終回)西郷隆盛と庄内藩
翌年7月、農民たちが転封の撤回を求め明治政府の要人に対し「天保の義民」のような直訴を始めた。これは政府を動かしたが、その代わりに70万両もの献金を命じられる。
当時の新政府は年貢から得られる歳入が歳出の1割ほどしかなく、深刻な財政危機に瀕(ひん)していたことから庄内藩に献金を命じたのだった。
日本の基本通貨が「両」から「円」に移行するのは明治5年だが、新税制を画策していた大蔵官僚・渋沢栄一は国家予算を3000万両と試算していた。70万両は小さな額ではない。
この難題に対しても庄内の領民は少しずつ金を出し合った。そして明治3年8月、献金が30万両に達したところで残りは免除された。これには西郷隆盛の配慮があった。

西郷の寛大さに感激した忠篤は同年11月、29人の旧藩士とともに鹿児島へ留学し、西郷を師と仰いだ。忠篤の帰国後も鹿児島への留学は続き、総数は70人を超えた。この中には明治10年の西南戦争で西郷軍に身を投じた人もいる。伴兼之(ばん かねゆき)と榊原政治(さかきばら まさはる)だ。
鹿児島市の南洲神社(なんしゅうじんじゃ)が昭和57年にまとめた「西南の役戦没者名簿」には6765人が記録されているが、末尾近くに伴と榊原の2人の名が記されている。
明治22年、大日本帝国憲法発布に伴う特赦(とくしゃ)で西郷の名誉が回復されたのを機に、西郷の教えを受けた旧庄内藩士が筆記していた西郷の言葉をまとめて「南洲翁遺訓」を発行した。
酒田市飯盛山の南洲神社には多数の西郷の遺品や遺墨が保存されている。鹿児島市では西郷の遺品の多くは西南戦争後に散逸してしまっただけに、西郷を知る貴重な直接史料だ。
中庭には、西郷の座右の銘「敬天愛人(けいてんあいじん)」(天を敬い、人を愛す)を刻んだ石碑がある。