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~やまがた~藩主の墓標/(55)「朝敵」にされた庄内藩

2016年11月25日
 慶応4年(1868年)の戊辰戦争(ぼしんせんそう)で庄内藩は朝敵とされたが、その理由は判然としない。

 直接的には3月29日、寒河江と柴橋の幕府代官所から年貢米を運び去った罪とされる。当時、両代官所の管理は庄内藩に委ねられていたが、薩摩・長州藩を中核とする新政府軍(奥羽鎮撫総督府・おううちんぶそうとくふ)が「奥州の幕領を接収する」と発表した後だったので、庄内討伐の絶好の口実になった。

 実は庄内藩はその前から、政府軍の襲来に備えていた。というのも前年12月25日、江戸市中警備を命じられていた庄内藩兵1000人と応援の諸藩兵が江戸・三田の薩摩藩邸を焼き討ちしていたからだ。
 当時、江戸市中で強盗などを働いていた浪士団が薩摩藩邸を根城にしており、彼らを捕縛しようとしたのである。だが浪士団の暗躍は幕府側に薩摩藩邸を攻撃させ、倒幕開戦の理由にしようという薩摩藩の陰謀だった。

~やまがた~藩主の墓標/(55)「朝敵」にされた庄内藩

 時の庄内藩主は11代酒井忠篤(さかい ただずみ)。6年前、10代忠寛(ただとも)が24歳で急死したために家督を継いだ忠篤は、戊辰戦争時16歳だった。

 庄内軍は強かった。奥羽越列藩同盟を離脱した秋田へ侵攻し、雄物川(おものがわ)流域と、海岸線の2方向から秋田城下まであと一歩に迫った。
 内陸部を進んだ庄内二番大隊長が酒井玄蕃(さかい げんば)で、巧みな用兵で新政府軍から「鬼玄蕃」と恐れられた。9年後に肺病のため35歳で没することになる玄蕃は、9月15日の刈和野(かりわの)(現大仙市)の戦いでは本陣で病臥(びょうが)していたが、16日夜明けに駕籠(かご)で戦場に現れ、庄内軍に決死の突撃を命じて刈和野を奪還した。

 翌17日、庄内軍は総退却に転じた。すでに同盟軍諸藩兵には帰還命令が届いており、刈和野で激戦を演じたのは敵を萎縮させ、追撃を遅らせる作戦でもあった。新政府軍が気づいた時、庄内軍ははるか南方を整然と引き揚げていた。「鬼玄蕃」は無敗のまま帰国したのである。

 会津藩に続いて庄内藩も降伏したのは、9月26日のことだった。

加藤 貞仁