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~やまがた~藩主の墓標/(54)「天保義民」が移封阻止

2016年11月11日
 庄内藩14万石の第7代藩主・酒井忠徳(さかい ただあり)は文化2年(1805年)に隠居、家督を16歳の嫡子・忠器(ただかた)に譲った。忠器治世の天保11年(1840年)、庄内藩を揺るがす大事件が降りかかった。

 11月、幕府は突然、忠器に越後長岡藩7万石への移封を命じた。長岡藩主・牧野忠雅(まきの ただまさ)は武州川越藩15万石へ、そして川越藩松平斉典(まつだいら なりつね)を庄内へ移すという後世に名高い「三方領地替え」である。
 移封命令は、天保の改革を進める老中首座の水野忠邦(みずの ただくに)から発せられたが、理由は示されなかった。忠徳・忠器父子の善政は全国にも喧伝(けんでん)されており、庄内藩が減封される落ち度はない。
 世上囁(ささや)かれたのは、時の将軍・家斉(いえなり)の子を養子に迎えた松平斉典が、財政難を打開するため裕福な庄内への転封を画策したというものだった。

~やまがた~藩主の墓標/(54)「天保義民」が移封阻止

 これに対し翌12月、農民11人が江戸にのぼり、大老の井伊直亮(いい なおあき)に移封取り消しを求める嘆願書を提出するなど、庄内藩では領民が転封阻止運動に立ち上がった。
 陸続と江戸を目指す農民たち。彼らの間では「百姓といえども二君に仕えず」というスローガンまで現れた。
 翌年1月に将軍家斉が死去し、不明朗な幕政への批判が多くの外様大名から噴出、老中水野は領地替えに固執したが、幕閣からも反対の声が湧き上がるに至り、7月に領地替えは撤回された。

 藩主の忠器はその後、江戸城内での格式を下げられ、庄内藩には印旛沼(いんばぬま)(千葉県)疎水工事の手伝いを命じられるなどあからさまな報復を受けたが、父祖の地を守ったのである。

 ただ、「美談」ばかりでこの騒動を評することはできない。農民たちの江戸までの旅費は誰が負担したのか。農民のまとめ役はどう行動したのか――。そこには領主が代われば多額の出費が見込まれる酒田の豪商・本間家の影がちらつく。

 戦前、「天保義民」がもてはやされた時期があり、戦後、それを全く否定する史論も現れた。藤沢周平の「義民が駆ける」が比較的中立に、そしてかなり史実に忠実にこの大騒動をまとめている。

加藤 貞仁