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~やまがた~藩主の墓標/(53)財政危機救った本間家

2016年10月28日
 庄内藩2代藩主、酒井忠当(ただまさ)は万治3年(1660年)44歳で没し、嫡男忠義(ただよし)が3代藩主となった。忠義は祖父忠勝(ただかつ)に殺された人々の怨霊(おんりょう)を恐れるあまり精神を病んだらしく、37歳で死去した。

 次の忠真(ただざね)は60歳まで生きたが、彼が建立した社には忠勝が殺した140人余の名を記した祝詞(のりと)が納められていた。怨霊の祟(たた)りではなかろうが、忠真の唯一の男子は夭折(ようせつ)、5代藩主には分家の松山藩から忠寄(ただより)を迎えた。

 忠寄は寛延2年(1749年)に老中にのぼるなど、歴代の庄内藩主の中でも華やかな経歴を残した。ただ老中就任の翌年、忠寄が江戸で幕閣の同僚を招いて祝宴を開いた際、藩庫に金がなく、忠寄自らが証文を書いて家臣から米を借り上げて祝宴の費用に充てた。
 当時の庄内藩は、幕府の「お手伝い普請」や藩主の交際費の増大で財政が窮乏していた。宝暦10年(1760年)には財政赤字が10万両に達したという。

~やまがた~藩主の墓標/(53)財政危機救った本間家

 6代忠温(ただあつ)は明和4年(1767年)、在位1年で急逝(きゅうせい)する。嫡男の忠徳(ただあり)が13歳で7代藩主となったが、18歳で江戸から本国に帰国する際、その旅費すら調達できなかった。
 とりあえず出発し、国許で調達した金を途中の福島で受け取ることにしたが、約束の金は届かなかった。財政の実情を知った若き藩主は落涙したという。

 この危難を救ったのが酒田の豪商、本間光丘(ほんま みつおか)である。本間家は光丘の祖父の代から庄内藩に献金を重ねていた。光丘も献金や米穀の献納に加え、私財を投じて砂防林造成などの功績があり、5代藩主忠寄によって武士に取り立てられていた。
 財政再建を任された光丘は、低利資金を融資して高利の借財に苦しむ藩士を救済し、藩に対しては徹底的な倹約を要請、藩の借財も整理した。自身は500石の上級武士に栄進した。

 その後、家老・酒井吉之丞(さかい きちのじょう)、中老・竹内八郎右衛門(たけのうち はちろうえもん)らによる「寛政の改革」を経て財政は好転していくが、それも本間家の後ろ盾があってこそだった。

加藤 貞仁