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~やまがた~藩主の墓標/(52)長門守の陰謀

2016年10月14日
 庄内藩の初代藩主・酒井忠勝(さかい ただかつ)は、徳川家康の四天王の1人、忠次(ただつぐ)の孫である。酒井氏は徳川氏の同族であり、譜代大名の中でも筆頭とされた。

 元和8年(1622年)、信州松代10万石から庄内13万8000石に加増された忠勝は翌年、領内を一斉に検地して5万3千石も多い石高をはじきだした。検地は過酷なもので、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に耐えきれない多数の農民が秋田領へ逃げた。
 農民の直訴で庄内藩酒井氏は改易の危機もあったが、忠勝の世子・忠当(ただまさ)の正室が「知恵伊豆」とうたわれた時の老中・松平信綱(まつだいら のぶつな)の娘だったこともあり、不問に付されたという。

~やまがた~藩主の墓標/(52)長門守の陰謀

 しかし、それよりもっと重大な危機が初期の庄内藩にはあった。鶴岡出身の藤沢周平が小説「長門守(ながとのかみ)の陰謀」で描いた事件である。
 酒井氏の庄内移封の際、幕府は忠勝のすぐ下の弟・直次(なおつぐ)に左沢1万2000石を与えて大名に取り立て、その下の弟・長門守忠重(ただしげ)に白岩(寒河江市)で8000石を与えた。この忠重が自らの長子を藩主の座に据えようと謀り、忠当の廃嫡を企てたというのが長門守事件だ。

 長門守の陰謀を阻止しようとした家老・高力喜兵衛(こうりき きへえ)の関係者が多数殺されたが、これは藩主忠勝が忠重の口舌を信じたからとされる。 
 長門守の陰謀が成就する前に忠勝が没し、家督は忠当が相続した。忠当は2万両を忠重に与えて義絶し、その後、下総国市川(千葉県市川市)に隠棲した忠重は夜盗に殺された。

 この事件だけでなく、忠勝によって命を失った者は300人に及んだとされ、直接手討ちにされた家臣は130人とも言われる。その多くは女中などの女性、身の回りの世話をする身分の低い人たちだった。
 後に松平信綱は「忠勝は短慮で、わがままな振る舞い、ことに悪人の長門殿の意見に何かと従ったために、もう1年も半年も存命だったなら、酒井の家は破滅しただろう」と述べている。

加藤 貞仁