徹底して山形に密着したフリーペーパー

~やまがた~藩主の墓標/(51)鶴ヶ岡城と亀ヶ崎城

2016年9月23日
 庄内地方は「関ヶ原」の後、最上氏の山形藩領となるまで目まぐるしく統治者が交代した。

 最初に庄内地方を統一したのは、戦国大名の武藤義氏(むとうよしうじ)である。武藤氏は鎌倉時代に大泉荘(鶴岡市の南西地域)の地頭に任じられ、荘園の中心地・大宝寺城(だいほうじじょう)(鶴岡城の前身)に拠点を置いたため大宝寺氏も名乗り、領地を「庄内」と呼んだ。
 義氏の父の代までは一族の内紛などで振るわなかったが、元亀(げんき)2年(1571年)に20歳の義氏は越後の上杉謙信に通じて反対勢力を一掃し、翌年には由利地方(秋田県)まで進出した。

~やまがた~藩主の墓標/(51)鶴ヶ岡城と亀ヶ崎城

 しかし、謙信が急死し景勝と景虎との間で家督争いが生じた際、敗れた景虎側についたため後ろ盾を失ってしまう。代わって織田信長に近づいたが、本能寺の変で情勢が一変、最上義光(もがみよしあき)に内通した家臣・前森蔵人(まえもりくらんど)の反乱で横死(おうし)した。蔵人は東禅寺城(とうぜんじじょう)(酒田市)に入って東禅寺氏を称した。

 その後、景勝配下の村上城主・本庄繁長(ほんじょうしげなが)が庄内地方を奪ったものの、太閤検地に際し農民一揆が起きたため領地を没収され、庄内は改めて上杉景勝に与えられた。
 ところが、関ヶ原の合戦で徳川家康に敵対した上杉氏が米沢に押し込められ、庄内と由利地方は最上氏の所領となった。

 最上義光は慶長8年(1603年)、酒田の浜で大きな海亀が捕獲されたのを瑞兆(ずいちょう)として東禅寺城を亀ヶ崎城、大宝寺城を鶴ヶ岡城と改称した。
 義光は鶴ヶ岡城を隠居の場所と定め二の丸を増築したが、ここに居住したことはなく、最上氏そのものが元和8年(1622年)改易に。その後は徳川四天王のひとり酒井忠次の嫡孫(ちゃくそん)にあたる信州松代10万石の酒井忠勝が加増を受けて13万8000石で入部した。

 忠勝は山形藩22万石の鳥居忠政の娘婿。当初は鳥居の枝城のような庄内への転封するのを嫌がったというが、軍事上の重要地点と説得されて鶴ヶ岡城に入る。以後、酒井氏の庄内藩は明治維新まで存続することになる。

加藤 貞仁