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~やまがた~藩主の墓標/(50)松山藩の戊辰戦争

2016年9月9日
 出羽松山藩3代藩主・酒井忠休(さかい ただよし)は天明7年(1787年)74歳で没し、2男・忠崇(ただたか)が家督を継いだ。忠崇には嗣子(しし)がなく、庄内藩主の酒井家から忠禮(ただのり)を養子に迎え5代とした。6代は忠禮の長男忠方(ただみち)。その長男で7代藩主となった忠良(ただよし)の治世に戊辰戦争が勃発(ぼっぱつ)する。

 新政府軍が慶応4年(1868年)4月24日未明、庄内藩の軍事拠点だった清川(現庄内町)を奇襲した。最上川の対岸に位置する松山藩は直ちに援兵を送り、敵を撃退した。

 7月4日、秋田藩が奥羽列藩同盟(おううれっぱんどうめい)を離脱し、同11日には金山宿(金山町)の戦いで新庄藩が列藩同盟を裏切った。新庄攻撃に向かう庄内藩軍に、松山藩は長坂右近介(ながさか うこんのすけ)を隊長とする157人を派兵。以後、長坂隊は雄物川(おものがわ)沿いに秋田へ迫る。

~やまがた~藩主の墓標/(50)松山藩の戊辰戦争

 一方、海岸沿いに秋田攻略を目指す庄内藩軍には7月27日、永井丹治(ながい たんじ)率いる250人の松山隊が合流した。この隊は秋田城下へわずか10キロの長浜(秋田市下浜長浜)まで迫ったが、9月12日に小隊長の毛呂太郎太夫(もろたろうだゆう)が戦死し、撤退に転じた。
 永井は、鳥海山の北側に位置する矢島藩(現秋田県由利本荘市)を陥落させた庄内藩から戦後統治を託される。永井は矢島を永代の松山藩領と考え、善政を敷いた。旧矢島町には住民が永井に感謝したという当時の記録が残っている。

 しかし松山藩は敗戦側に回った。藩主忠良は隠居し、3男・忠匡(ただまさ)に家督を譲ったが、2万5000石の領地は2千5百石を削られただけ。後に忠匡は子爵(ししゃく)に叙(じょ)せられた。

 ところで、松山に墓のある藩主は2代忠豫(ただやす)のみで、菩提寺・心光寺(しんこうじ)(酒田市)に御霊屋がある。
 江戸の菩提寺は牛込(東京都新宿区)の光照寺(こうしょうじ)で、かなり広い面積を「出羽松山藩酒井家墓所」が占める。初代忠恒(ただつね)から7代忠良までと、女性の墓もある。
 8代忠匡の墓だけは谷中霊園(東京都台東区)の一角、天王寺墓地にある。墓石には「正三位子爵酒井忠匡之墓」と刻まれている。

加藤 貞仁