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~やまがた~藩主の墓標/(49)城持ち大名となった松山藩

2016年8月26日
 正保4年(1647年)に庄内藩2代藩主となった酒井忠当(さかい ただまさ)は、父忠勝の遺言によって2人の弟にそれぞれ領地を分与して支藩を創設した。
 江戸時代初期、嗣子(しし)を定めず藩主が死去したために取り潰された大名は数多かった。支藩創設には、本家が消滅しても家名を残す意図があった。

 2つの支藩のうち、大山藩1万石が1代で断絶したことは前回紹介した。もう1つの支藩は、忠勝の3男・忠恒(ただつね)が2万石を得て松山町(現酒田市)に居を構えた松山藩である。
 忠恒の死後、延宝3年(1675年)に2代藩主となった忠豫(ただやす)には4人の男子がいたが、長男は夭折(ようせつ)、2男は盲目だった。3男・忠寄(ただより)は本家の養嗣子(ようしし)に迎えられて庄内藩5代藩主となったが、4男は早くに他家の養子としたため、忠豫には跡継ぎがいなかった。
 そこで、享保17年(1732年)8月、庄内藩主酒井家の分家筋から忠休(ただよし)を養嗣子として迎えた。忠豫はすぐに隠居し、79歳の長命を得て3年後に没した。

~やまがた~藩主の墓標/(49)城持ち大名となった松山藩

 3代藩主・忠休は寛延2年(1749年)、幕閣の一員である若年寄(わかどしより)に任じられ、安永8年(1779年)、長年の功労により上野国(群馬県)で5000石の加増を受けたので松山藩は2万5000石になった。それまでの陣屋に代わる築城も許された。ここまでは忠休の日の当たる側面といえよう。
 一方で忠休は藩政を側近に任せ、松山藩譜代の家臣を無視したことなどから家中の猛烈な反発を招く。ついには家老から「家臣も領民も、あなたを主君とは思っていない」という弾劾書まで突きつけられた。
 宝暦6年(1756年)8月には、江戸藩邸に詰める藩士から中間に至るまでの270人が忠休の引退を要求して仕事を放棄した。

 時の老中は庄内藩主の酒井忠寄(さかい ただより)。忠寄は家老を派遣して松山藩士を説得し、その後の処分も軽く済ませた。そうしなければ老中、若年寄の体面が保てなかったためだが、以後、松山藩は自主性を失い、宗家の指導を受け続けることになる。

加藤 貞仁