~やまがた~藩主の墓標/(48)左沢藩と大山藩
周辺の有力外様大名に備えるため、最上氏の遺領に譜代大名を配置した政策の一端である。
直次は陣屋の小漆川城(こうるしがわじょう)を築き、城下を整備するなど現在の左沢中心街の基礎を築いた。しかし寛永7年(1630年)、直次が跡継ぎのないまま35歳で没したため、左沢藩は断絶、領地は幕府に召し上げられた。
わずか8年の左沢藩だが、直次の菩提寺である曹洞宗の古刹(こさつ)・巨海院(こかいいん)の山門は小漆川城の城門を移築したもので、寺域には直次夫妻の墓碑も残されている。

正保4年(1647年)、庄内藩2代目藩主となった酒井忠当(さかい ただまさ)は2人の弟にそれぞれ領地を分与して支藩を創設した。そのうち下の弟、わずか5歳の忠解(ただとき)が新田1万石を与えられ、鶴岡市大山に陣屋を構えて立藩したのが大山藩である。
だが忠解は寛文8年(1668年)26歳で死去し、大山藩は無嗣断絶、領地は天領となった。忠解の墓は鶴岡市大山3丁目の道林寺にある。本堂左わきの小さな御霊屋だ。
大山では、はるか後年の弘化元年(1844年)に「大山騒動」と呼ばれる大事件が起きた。
天領となった大山の地を庄内藩の預かり地とする幕命が下り、「天領の民」という矜持(きょうじ)を持つ住民らが阻止運動に立ち上がったのだった。
庄内藩領になると各種の税が高くなるという実質的な不利益もあったようで、江戸に上って幕閣に嘆願書を提出(駕籠訴(かごそ))したほか、数千人規模の一揆に発展した。
結局は住民らの敗北に終わり、獄門、遠島、追放など処分者は3000人以上にのぼった。
騒動の中心は造り酒屋の面々だったと聞く。大山では江戸時代から酒造業が盛んで、今も4軒の酒蔵がある。町並みには鶴岡とはまた違う独特の雰囲気が感じられる。