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~やまがた~藩主の墓標/(47)「清正公」と鶴岡の縁

2016年7月22日
 徳川幕府が開闢(かいびゃく)して間もないころの21年間だけ、旧櫛引(くしびき)町丸岡(現鶴岡市)に1万石の小藩があった。藩主は熊本藩52万石の太守で、現在も熊本では「清正公(せいしょうこう)」として親しまれている加藤清正(かとう きよまさ)の嗣子(しし)・忠広(ただひろ)だ。

 忠広は改易されて庄内藩にお預けとなり、丸岡に陣屋を建てたので丸岡藩と呼ばれるが、実質は罪人の扱いだった。

 関ケ原の合戦で天下を握ったものの、豊臣秀頼がいる限り徳川家にとって豊臣恩顧の大名は不気味な存在で、その筆頭が清正だった。だが清正は慶長16年(1611年)50歳で急死した。毒殺説もささやかれている。 
 当時、忠広は10歳。家督相続は認めたが、徳川幕府が取り潰しを狙っていたことは間違いない。大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、幕府は事あるごとに熊本藩の内政にも容喙(ようかい)するようになった。

~やまがた~藩主の墓標/(47)「清正公」と鶴岡の縁

 改易の直接の理由は幕府転覆の陰謀に忠広が加担したためとされるが、実態は老中・土井利勝(どい としかつ)のワナにはまったというのが定説になっている。
 忠広は母、側室、家臣など50人で丸岡に移り住んだ。和歌、尺八に親しみ、酒に酔う日々だったという。忠広が52歳で没して丸岡藩は消滅したが、家臣のうち6人は庄内藩に召し抱えられ、幕末まで続いた。

 鶴岡市三光町の本住寺の土蔵の中に、2基の五輪塔がある。左側が忠広、右は忠広の母、つまり清正夫人の墓だ。
 旧櫛引町には「丸岡城跡」があり、近くの天沢寺(てんたくじ)には「加藤清正の墓」もある。昭和24年の発掘調査で熊本県で焼かれた遺骨壷が発見されたが、これが清正かどうかは確認されていない。
 忠広の嫡男光広は飛騨高山藩主・金森重頼(かなもり しげより)にお預けとなるが、1年後に病没。2男正良は忠広の後を追って自刃。娘の献珠院(けんじゅいん)は32歳で死去し、加藤家は公的には断絶したが、実は丸岡で忠広は2子を得ていた。

 子孫は大庄屋・加藤与治左衛門家として存続し、日本人女性として3人目の理学博士となり、平成元年に死去した加藤セチさんが最後の直系子孫とされている。

加藤 貞仁