徹底して山形に密着したフリーペーパー

山形商業高 野球部前監督 澁谷 良弥 さん

2016年7月22日
澁谷 良弥(しぶや・よしや) 1947年(昭和22年)山形市生まれ。日大山形高2年の63年夏に投手として甲子園出場。日大から社会人野球の金指造船(静岡)に進み、25歳の72年に日大山形の監督就任。73年春に県勢初のセンバツ初出場を果たし春夏を通じ甲子園初勝利、同夏も選手権初勝利を挙げるなど30年間で春夏通算14度の甲子園に導く。2002年に青森山田(青森)の監督に転じ、10年間で春夏通算8度の甲子園。12年に山形市スポーツアドバイザーと山形商監督就任。16年7月16日、山形商監督を勇退。69歳。
山形商業高 野球部前監督 澁谷 良弥 さん

甲子園出場通算22回
  生徒に連れていってもらいました

――45年間の監督生活、お疲れ様でした。 

戦友からもねぎらい

 「(勇退を決めたのは)年も年だし、体力的にもキツくなった。ノックも昔のように飛ばなくなりました」
 「スポーツアドバイザーの契約は来年3月までですが、高校野球は夏大会がメーン。秋から新体制が始動することを考えれば今夏が潮時かなと」
――甲子園出場が通算22回、全国歴代10位タイなんですね。
 「16日の3回戦で負けて〝最後の夏〟が終わった直後、星稜の山下智茂監督(注・通算出場25回)と明徳義塾の馬淵史郎監督(同27回)から『ご苦労様』のメールをもらいました」
 「智弁和歌山の高嶋仁監督(同35回)やPLの中村順司元監督(同16回)は同い年。彼らとは長く競い合ってきましたが、グラウンド外では仲はいいんですよ(笑)」

歴史のページを開いた

――1番の思い出って?
 「やっぱり昭和48年の県勢初のセンバツ初出場・甲子園初勝利と、夏大会初勝利ですね。あれは(県高校野球の)歴史の1ページだったと密かに自負しています」
 「監督に就任したのがその前年。当初は部員の髪型や服装など風紀が乱れていて、それを徹底的に正そうとしたら、20人いた3年生が2人だけになっちゃった(苦笑)」
 「それでも猛練習を課し、練習試合では勝てそうな相手を選んで自信をつけさせた。そんな苦労が報われたという意味でも思い出深いですねえ」 

私も補欠でした

――教え子は3校合わせて1000人超!
 「選手はもちろん、補欠の子もいます。実は長い監督生活で、ベンチ入りメンバーを発表する時が1番ツラかった。外れる3年生の顔がまともに見れなくて…」
 「私自身も高2の時は控えで、甲子園の土を踏んだのは開会式だけ。大学4年間も草むしりと球拾い。社会人野球も泣かず飛ばずでしたから」
 「だけど、ある時期から、補欠の子らのモチベーションが高くないとチームは強くなれないことも分かってきた。だから勝って胴上げする時は監督より先に補欠選手というのが私の時代の日大山形のスタイルでした」
――いい話ですねえ。
 「教え子から教えられることの方が多かった。甲子園も私が連れて行くのではなく、私が連れて行ってもらいました」

我が人生に悔いなし

 「家族にも迷惑をかけた。この年まで大好きな野球をやれたのは生徒と家族のおかげです」
――最後に、監督にとって高校野球とは?
 「人生そのもの。我が人生に悔いなし(笑)」