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~やまがた~藩主の墓標/(46)灰燼(かいじん)に帰した新庄城下

2016年6月24日
 慶応4年(1868年)7月4日、秋田藩が突然、奥羽列藩同盟を離脱した。新庄藩は直ちに仙台、山形、上山の諸藩とともに秋田との藩境に出兵、庄内征討軍の襲来に備えた。

 薩摩、長州、秋田の征討軍には海路から肥前、小倉の藩兵も来援し、11日、同盟軍が本営を置いていた金山宿(金山町)に3方向から迫った。後に首相となる長州の桂太郎の隊は西方の鏡沢(かがみざわ)(真室川町)に現れた。
 この時、新庄兵が突如、守備軍の仙台兵に発砲した。新庄藩は征討軍に内通していたのだ。

~やまがた~藩主の墓標/(46)灰燼(かいじん)に帰した新庄城下

 薩摩と肥前の合同部隊は東方の奥羽山脈・有屋峠を越えて金山を直撃。中央の主寝坂峠(しゅねざかとうげ)でも左翼の新庄藩が姿を消し、背後の金山宿から挟撃された同盟軍は壊滅した。
 新庄藩の寝返りには、11代藩主・戸沢正実(とざわ まさざね)の生母である桃齢院(とうれいいん)が関与したと推測されている。10代正令(まさよし)の正室・桃齢院は薩摩藩島津家の出身。実家を後ろ盾に、わが子正実を説得したことは十分に考えられる。

 この裏切りに対し、庄内藩の反攻は早かった。14日朝から酒井玄蕃(さかい げんば)の二番大隊(950人)、松平甚三郎(まつだいら じんざぶろう)の一番大隊(千人)による新庄総攻撃が始まった。
 攻防戦の中で新庄兵が味方を背後から銃撃する失敗を犯し、混乱した征討軍諸藩兵は撤退を始めた。藩主正実は「城を枕に討ち死にする」と覚悟を固めたが、桂太郎の「再起を期すべし」という助言や、家老一同の説得で午後3時過ぎ、城を出て秋田へ落ち延びた。
 生母・桃齢院など女性たちはこれより早く、昼食後100人余が徒歩で脱出した。女性たちは雨の降る雄勝峠(おがちとうげ)で夜明けを迎えたという。

 新庄城下はことごとく焼かれた。秋田で征討軍は敗戦を重ね、正実が新庄に帰還できたのは庄内藩が降伏した後の10月1日になってからだった。戦後、新庄藩には1万5000石が加増され、正実は子爵に叙せられた。
 3層の天守閣があった新庄城は現在、本丸を囲む堀、表御門の石垣などに往時をしのぶことができる。本丸跡には明治27年、戸沢神社が創建された。

加藤 貞仁