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~やまがた~藩主の墓標/(45)11代・正実が戊辰の舵取り

2016年6月10日
 新庄藩3代藩主・戸沢正庸(とざわ まさつね)は76歳の長寿だったが、4代正勝(まさよし)は24歳、5代正諶(まさのぶ)は44歳、6代正産(まさただ)は20歳、7代正良(まさすけ)は24歳、8代正親(まさちか)は39歳で没するなど、短命な藩主が続いた。
 ~やまがた~藩主の墓標/(45)11代・正実が戊辰の舵取り

 9代正胤(まさたね)(「まさつぐ」と読む史料もある)はわずか5歳で家督を継ぐが、幸い66歳の寿命を得た。だが正胤が天保11年(1840年)に47歳で隠居して家督を譲った10代正令(まさよし)は3年後、30歳で急死してしまう。
 遺児正実(まさざね)は11歳。祖父正胤がこの幼主を後見せざるを得なかった。安政5年(1858年)に正胤が没し、幕末維新の荒波が正実に押し寄せる。

 それに先立つ文久3年(1863年)、正実は幕府に命じられ半年ほど京都の警衛を担当し、その間に2度、時の孝明天皇に拝謁(はいえつ)した。だからと言って正実が強い勤皇思想に染まったとは思えないが、慶応4年(1868年)4月11日、仙台まで来ていた奥羽鎮撫総督(おううちんぶそうとく)・九条道孝(くじょうみちたか)は新庄藩に庄内征討を命じた。
 さらに4月23日、天童藩家老・吉田大八の案内で奥羽鎮撫副総督・沢為量(さわ ためかず)が薩摩藩兵86人、長州藩兵108人を従えて新庄に到着した。その夜、征討軍は突然「庄内を征討する」と言い出し、新庄藩兵10人が道案内を務めた。
 24日未明には、清川(現庄内町)に到着し、前々から警戒にあたっていた庄内藩兵と交戦するも突破できず、征討軍は新庄へ退却。これが戊辰戦争で山形県内最初の戦火となったわけだが、新庄藩は無理やり戦争に巻き込まれた形だ。

 その後、新庄藩は奥羽列藩同盟に加わる意向を示したため、沢為量をはじめとする奥羽鎮撫勢は居場所を失ってしまう。5月1日に秋田藩領へ入り、しばらくの間、放浪するのやむなきに至る。

 新庄藩の江戸の菩提寺は、三田(現在の港区三田)の常林寺(じょうりんじ)だった。常林寺には3人の藩主の墓と、江戸を出られなかった奥方らの墓もあったはずだが、現在は「戸沢家累代之墓」としてまとめられている。

加藤 貞仁