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~やまがた~藩主の墓標/(44)新庄藩を襲った「断絶の危機」

2016年5月27日
 新庄藩(移封後に加増され6万8200石)の初代藩主・戸沢政盛(とざわ まさもり)が、実子正誠(まさのぶ)を差し置いて鳥居忠政(とりい ただまさ)(山形藩22万石)の次男・定盛(さだもり)を養嗣子(ようしし)とし、定盛が34歳で死ぬとその娘に婿(むこ)として迎えようとしたのは鳥居家を通じ徳川家との絆を強くしようとしたからだが、それは戸沢氏の直系が断絶することを意味する。
~やまがた~藩主の墓標/(44)新庄藩を襲った「断絶の危機」

 だが、定盛の娘の婿取りを敢行する直前の慶安元年(1648年)1月、政盛は64歳で没してしまう。実子の正誠は当時8歳で、末期相続(まつごそうぞく)に当たるため通常なら「お家断絶」である。
 新庄藩重臣たちは、つてを頼って幕府老中・松平信綱(まつだいら のぶつな)に働きかけ、ついに慶安3年8月に正誠の相続が認められる。2年以上も藩主が不在にもかかわらず領地が安堵された例は他藩にはない。

 幸運にも藩主となった正誠は83歳まで生きた。譜代門閥勢力を抑え中央集権の藩政を確立したほか、領内総検地を実施して藩財政の基礎を築くといった功績を残した。
 その反面、派手好きで、学者、文人を家臣に召し抱えるなど、治世末期には放漫財政になっていった。

 正誠の隠居後に3代藩主となった正庸(まさつね)は、最初から財政再建に努めなければならなかった。様々な倹約を命じ、農民の負担を軽くする施策を進めたが、財政窮乏は明治まで尾を引くことになる。
 正庸は60歳代になっても鷹狩りを楽しみ、領内の温泉にも徒歩で往復するなど、お供の家臣より健脚だったという。77歳で亡くなるまで矍鑠(かくしゃく)としていたと伝えられる。

 新庄市には戸沢家の廟(びょう)が2カ所ある。大半の藩主の廟が並ぶ瑞雲院(ずいうんいん)は当初、羽州街道の西側にあったが、元禄14年(1701年)の火事で現在地へ移った。旧瑞雲院跡は「焼け寺」と呼ばれ、上級家臣と思われる人々の墓碑が残されている。
 瑞雲院とは別の戸沢家の廟が桂嶽寺(けいがくじ)である。2代藩主・正誠が9歳で死去した嫡子、政武(まさたけ)のために建立した寺だ。
 正誠が没すると、3代藩主・正庸は政武の墓を見守るような位置に正誠の廟を建立した。

加藤 貞仁