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~やまがた~藩主の墓標/(43)「山伏の子」が初代新庄藩主に

2016年4月22日
 後に新庄藩主となる戸沢氏は、もとは岩手県雫石(しずくいし)あたりを本拠にしていた豪族だった。それが勢力を拡大する南部氏に追われて奥羽山脈を越え、秋田県角館(かくのだて)に落ち着いてから、戦国大名の一端に加わるようになる。
~やまがた~藩主の墓標/(43)「山伏の子」が初代新庄藩主に

 ところが、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した戸沢盛安が陣中で病没し、跡を継いだ弟の光盛も秀吉の朝鮮出兵に参加するため九州へ向かう途中、姫路で急死してしまう。光盛には嗣子(しし)がなく、戸沢氏は断絶の危機に直面した。
 家臣たちが慌(あわ)てて探し出したのは東光坊という山伏の8歳になる男の子。盛安が鷹狩りに出た時、農家の娘と懇(ねんご)ろになって生まれた庶子だった。娘は後に東光坊に嫁ぎ、男の子は山野を走り回り丈夫に育っていた。
 家臣たちは徳川家康に頼み、その子を秀吉に拝謁(はいえつ)させることに成功。角館の所領は安堵され、山伏の子で終わるはずだったその子が戸沢家21代当主・政盛となる。

 政盛は家康に近づき、関ヶ原の合戦に際しては会津の上杉景勝の動向を調べて家康に報告し、最上義光とともに上杉勢と戦った。常陸の佐竹義宣が秋田へ移されると、松岡(茨城県高萩市)4万石を与えられたのもこの時の戦功による。
 そして元和8年(1622年)、最上氏改易の後、幕府は山形に鳥居忠政22万石、その妹婿(いもうとむこ)の戸沢政盛に2万石を加増して新庄に置くなど、鳥居一族によって周辺の有力外様大名に備えようとした。戸沢氏は譜代大名の格式を得たのである。

 政盛は鳥居氏とのきずなを強めるため、実子がありながら忠政の2男・定盛を養嗣子(ようしし)とした。その定盛が34歳で没すると政盛は定盛の娘に婿(むこ)を迎えて相続させようとしたらしい。それは戸沢氏の直系断絶の危機だった。

 新庄市太田の瑞雲院(ずいうんいん)本堂の裏手に、新庄藩歴代藩主の廟(びょう)が立ち並ぶ。茅葺きの廟は6棟あり、他の大名家と違い藩主だけでなく、女性や子どもの墓石も中に納められている。1号棟には藩祖・政盛と側室、それに若くして亡くなった養子・定盛、という具合だ。

加藤 貞仁