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~やまがた~藩主の墓標/(42)焼き討ちされた長瀞陣屋

2016年4月8日
 長瀞(ながとろ)藩1万1千石の初代藩主、米津通政(よねきつ みちまさ)は文政2年(1819年)に70歳で死去し、長男の政懿(まさよし)が家督を継いだ。

 政懿も66歳の長命で、ペリーの黒船が来航した嘉永6年(1853年)に没し、養子の政易(まさやす)(庄内藩主酒井忠器(ただかた)の10男)が長瀞藩を継承した。
 政易は殖産興業に努めたが、病弱のため弟(忠器の11男)政明(まさあき)を養子にし、わずか7年で隠居した。

 4代政明も5年後の慶応元年(1865年)に35歳で子の政敏(まさとし)に家督を譲り、自分は長瀞の陣屋で起居するようになる。 生まれ育った庄内に近い場所で暮らしたかったのだろうが、そのために戊辰戦争で長瀞藩は庄内藩の同族とみなされることになる。

~やまがた~藩主の墓標/(42)焼き討ちされた長瀞陣屋

 慶応4年閏4月4日、奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)の先導役となった天童藩を庄内藩軍が攻撃、城下を焼き払う。だが戦線拡大の意思はなく、攻撃軍はその夜、長瀞陣屋で宿陣して翌日、鶴岡へ凱旋(がいせん)した。
 天童藩中老の吉田大八(よしだ だいはち)はそれまで、長瀞藩陣屋代官の根本策馬(ねもと さくま)を仲介役に庄内藩との軍事衝突を避ける裏工作に奔走していた。だが天童が落城しては庄内藩と対決せざるをえない。
 3日後、大八の率いる天童藩軍は、新庄から南下した総督府軍とともに長瀞を襲撃した。

 ただ、隠居の政明はじめ陣屋の人々はすでに鶴岡へ避難していた。大八は陣屋を焼き払ったが、米蔵までは焼かなかった。「長瀞郷土史」には住民が「村民共有のこの蔵を失っては生きる道がない」と、大八に寛大な処置を懇願したことが記録されている。
 当時、江戸にいた藩主政敏は新政府への協力を約束していたので、陣屋の住民が庄内藩を頼ったことは不問に付された。
 明治2年11月、政敏は領地のひとつ上総大網(かずさおおあみ)(千葉県大網白里市(おおあみしらさとし))へ政庁を移し、大網藩と称したので、この時点で長瀞藩は消滅した。

 現在の長瀞には、周囲に掘割をめぐらせた陣屋の遺構が残り、地元の人々は歴史遺産として大切に保存している。

加藤 貞仁