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~やまがた~藩主の墓標/(41)長瀞藩を開いた米津氏

2016年3月25日
 武蔵(むさし)の久喜(くき・埼玉県久喜市)を本拠に下総(しもうさ)、上総(かずさ)、常陸(ひたち)などで1万1千石を領有していた米津通政(よねきつ みちまさ)が寛政10年(1798年)、武蔵の6千4百石を出羽国村山郡に移され、長瀞(ながとろ・東根市)に陣屋を構えたことから「長瀞藩」が誕生した。

 ただそれ以前、米津氏は山形とまったく無縁だったわけではない。「三河以来」の譜代(ふだい)の名門、米津氏の家祖は徳川家康の小姓として数々の戦陣を疾駆した田政(ただまさ)である。家康の天下統一後、5千石の旗本となった田政は初代江戸北町奉行を20年以上も務めた。
 山形藩57万石の最上氏で3代義俊(よしとし)の時に起きたお家騒動の咎(とが)めとして、幕府は幼い義俊を6万石に減封し、成長後に所領を元に戻すという裁定を下すが、その裁定を最上氏に伝えた幕府の使者が田政だった。

~やまがた~藩主の墓標/(41)長瀞藩を開いた米津氏

 だが家臣の抗争は続き最上家は改易に。山形藩はその後、鳥居(とりい)氏を経て保科正之(ほしな まさゆき)に継承される。正之は2代将軍・秀忠の隠し子。恐妻家の秀忠が自分の子を宿した女性を密かに見守るよう命じたのが田政だった。
 男子誕生を老中・土井利勝を通じて秀忠に伝え、証拠となる葵(あおい)の御紋付(ご もんつ)きの小袖をこの幼児に届けたのも田政である。
 田政の後を継いだ田盛(ただもり)の時、河内で1万石を加増されて米津氏は大名に列する。次の政武(まさたけ)が久喜藩初代藩主で、5代目の通政が長瀞藩の初代藩主になるわけだが、代々の長瀞藩主は江戸に住み、陣屋には代官を派遣して領地を治めた。

 長瀞藩2代目の政懿(まさよし)までは米津氏の直系だが、その養子として迎えた3代・政易(まさやす)は庄内藩主・酒井忠器(ただかた)の10男で、以後、酒井氏系の藩主が続くことになる。このことが、後の戊辰戦争(ぼしんせんそう)で長瀞藩に思わぬ戦火を呼ぶことにつながる。

 米津氏の菩提寺は、東京都東久留米市幸町の米津寺(べいしんじ)である。大名となった田盛の開基で、米津家墓所は同市の史跡にもなっている。歴代藩主の墓石は六角柱のちょっと変わった形だ。

加藤 貞仁