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~やまがた~藩主の墓標/(40)領地も陣屋も「幻の村山藩」

2016年3月11日
 天和2年(1682年)2月、遠州横須賀藩(静岡県掛川市)5万石の藩主・本多利長(ほんだ としなが)は出羽村山1万石への移封を命じられた……と書けば簡単だが、実は村山藩は実態がほとんどわからない「幻の藩」なのである。
 代々の岡崎藩主(愛知県岡崎市、6万石)本多家に生まれた利長は10歳で家督を相続した。その際、兄弟2人に計1万石を分与し、直後に横須賀へ移封された。以後、48歳まで横須賀藩主の座にあったが、幕府から突然13カ条の咎(とが)めを受けた。
 罪状のひとつが女性問題だった。利長は江戸・吉原の遊女を身請けして横須賀城に住まわせ、別の遊女を江戸屋敷で側室にしていたという。
~やまがた~藩主の墓標/(40)領地も陣屋も「幻の村山藩」

 そればかりではない。延宝(えんぽう)8年(1680年)5月に4代将軍・家綱(いえつな)が死去した日、諸大名は江戸城に駆けつけたが利長は前夜から吉原に居続け、家臣が慌(あわ)てて知らせたが、利長が着いたのは、城門が閉じられた後だった。
 罪状には「領民の困窮」も挙げられている。重い年貢を取り立て、農民を堤防工事などに駆り立てた圧政のことだ。
 幼くして藩主になった利長はわがままに育ったらしい。詳細は不明だが、出羽村山への左遷後も不祥事を起こし、江戸蟄居(ちっきょ)を命じられている。

 さて村山藩の実態だが、利長が移封を命じられた当時は山形藩が次第に縮小され、反対に天領が拡大していた時期に当たる。村山地方のあちこちの村を寄せ集めて計1万石にしたのかもしれない。少なくとも利長が村山に「お国入り」した形跡はない。陣屋の場所も不明。

 元禄5年(1692年)12月に利長が死去し、村山藩は養嗣子(ようしし)にしていた甥の助芳(すけよし)に引き継がれた。助芳は後に越後糸魚川藩1万石を経て信州飯山藩2万石に移り、加増を受けて3万5千石となった。この地で本多家は明治を迎える。

 本多家の江戸の菩提寺は東京・六本木の教善寺(きょうぜんじ)だったが、戦後の区画整理で近辺の寺の墓所が六本木墓苑にまとめられた。「旧飯山藩主本多家先祖累代之墓」もその中にある。

加藤 貞仁