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~やまがた~藩主の墓標/(39)戊辰戦争に翻弄された天童藩

2016年2月26日
 慶応4年(1868年)の戊辰戦争(ぼしんせんそう)に際し、天童藩織田家は新政府から奥羽鎮撫使(おううちんぶし)の先導役を命じられた。たった2万石の小藩だが、「信長公につながる格別の家柄」というのが理由だった。
 その直後、病弱だった2代藩主・信学(のぶみち)は隠居して家督を15歳の長男・信敏(のぶとし)に譲る。信学はなお実権を握っていたが、実際に先導役を務めたのは中老の吉田大八(よしだ だいはち)だった。大八は今も続く「将棋駒」の製造を下級武士の内職として奨励するなど、藩の財政改革に手腕を発揮していた。
~やまがた~藩主の墓標/(39)戊辰戦争に翻弄された天童藩

 鎮撫使が山形入りする直前、佐幕派の庄内藩が寒河江と柴橋の代官所から年貢米を運び去る事件が起きた。これを口実に鎮撫使側は庄内藩攻撃を命じるが(柴橋事件)、先導役の天童軍は200人足らず。戦闘を避けたい大八の懇願で寒河江の庄内軍は撤退した。
 ところが、鎮撫使軍が清川(現庄内町)へ侵攻したことに激高した庄内軍の一部が攻勢に転じ、天童城下を焼き払ってしまう。前藩主の信学と家族は奥羽山脈を越えて仙台藩へ逃げ込んだ。

 その後、天童藩が佐幕の奥羽列藩同盟(おううれっぱんどうめい)に加わると、庄内藩から追われる身となった大八は「藩主に迷惑がかかる」と切腹して果てる。享年37。新政府軍に降伏後、天童藩は2000石を没収され、廃藩置県(はいはんちけん)により天童県を経て山形県に編入された。

 歌川広重の肉筆画(天童広重)を依頼した江戸留守居役の吉田専左衛門(よしだ せん ざえもん)は、織田家の小幡藩時代に「明和事件」で罰せられた家老・吉田玄蕃(げんば)の一族、吉田大八は直系の子孫。高橋克彦の「広重殺人事件」は吉田一族が脈々と倒幕思想を受け継ぎ、専左衛門と狂歌仲間の広重もそれに共鳴していたという筋立てだ。

 東京都文京区の高林寺にある天童藩織田家の墓所には、53霊を合祀した五輪塔1基があるだけ。関東大震災で倒れなかった1基だというが、それが誰の墓石なのかは文字が摩滅して分からない。

加藤 貞仁