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~やまがた~藩主の墓標/(38)歌川広重と天童藩のつながり

2016年2月12日
 天童藩の祖は織田信長の次男・信雄(のぶかつ)である。江戸期の大名で織田は4家あったが、宗家は天童藩の織田。ただ天童藩が成立するのは天保元年(1830年)で、立藩までには紆余曲折(うよきょくせつ)があった。

 本能寺の変で信長が横死(おうし)した後、信雄は豊臣秀吉から尾張、伊勢、伊賀100万石を与えられた。だが北条征伐の後、関東へ移った徳川家康の旧領への国替えを拒んだことが秀吉を激怒させ、下野(しもつけ・栃木県)の烏山(からすやま)でわずか2万石の小大名に落とされる。
 江戸時代に入り、信雄は家康から大和(やまと)と上野(こうずけ・群馬県)で5万石を与えられ、うち上野の2万石を4男・信良に分与して小幡藩(おばたはん)が成立した。

~やまがた~藩主の墓標/(38)歌川広重と天童藩のつながり

 それから150年余を経た明和4年(1767年)、小幡藩主・信浮(のぶちか)は高畠(高畠町)への移封を命じられる。倒幕思想の儒学者・山県大弐(やまがた だいに)の「明和事件」に連座した左遷だった。
 当時、小幡藩家老の吉田玄蕃(よしだ げんば)は江戸の山県の塾に出入りしていた。小幡藩では吉田を罰したが、「幕府に報告すべきことを怠(おこた)った」という咎(とが)めを受けたのである。

 高畠藩の領地は置賜郡、村山郡、それに現在は福島県である信夫郡(しのぶぐん)に分散していたが、次の藩主・信美(のぶかず)の時に大部分の領地が村山郡にまとまり、天保元年に藩主の居館と陣屋を天童に移すという変遷をたどった。

 江戸末期に立藩した天童藩だったが、相次ぐ天災もあって藩財政は困窮(こんきゅう)を極め、領内の商人や豪農から借金を重ねた。その際、天童藩はユニークな返礼を贈った。それは当時の江戸で有名な浮世絵師・歌川広重の肉筆画である。
 「東海道五十三次」など広重の絵は「版画」が基本で、1枚ずつ描く肉筆画は貴重なものだ。

 広重と天童藩とはどんな関係があったのか――。直木賞作家・高橋克彦氏の「広重殺人事件」では、“天童広重”と呼ばれる肉筆画制作の謎を追うことから筆を起こし、戊辰戦争(ぼしんせんそう)で新政府の先鋒役になる天童藩の歴史に迫っている。

加藤 貞仁