~やまがた~藩主の墓標/(37)米沢藩の支藩だった新田藩
藩といっても特定の領地はなく、藩主の屋敷は米沢城の二の丸にあり、江戸屋敷も麻布にある米沢藩中屋敷の中に置かれた。家臣も財政もすべて米沢藩に組み込まれており、実質は名目だけの藩だった。
江戸時代初期、無嗣断絶(むしだんぜつ)となる藩が続出したため、家名存続のため分家を創設する大名が相次いだ。中には「万が一の場合、すべてを失うよりは…」という判断から、1万石を割り込んで大名の地位を失う例もあった。

米沢藩では3代綱勝の急死で、慌てて吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)の幼い男児を養子に迎えて4代綱憲(つなのり)とし、家名は存続できたものの領地を半減された苦い教訓がある。綱憲の長男・吉憲が分家を創設したのはこのためだ。
名目だけの分家として、同じ東北では佐竹家の秋田新田藩(あきたしんでんはん)がある。
米沢新田藩は勝周の子・勝承(かつよし)が2代目を継いだが、3代勝定(かつさだ)は米沢藩8代重定(しげさだ)の3男であり、4代勝義(かつよし)は重定の長男・勝熙(かつひろ)の子、5代勝道(かつみち)は米沢藩11代斉定(なりさだ)の4男。宗家・米沢藩の都合で支藩である新田藩の家督は受け継がれていった。この中で、最も苦労したのは戊辰(ぼしん)戦争に遭遇した5代勝道だろう。
慶応4年(1868年)7月5日、米沢藩のもとに越後戦線に派遣した藩軍から長岡城落城の報と、世子・茂憲(のりもち・後の米沢藩13代藩主)の出馬を求める請願が届く。
米沢藩では、茂憲に代わって新田藩主の勝道と家老の竹俣美作(たけのまた みまさか)を出陣させた。この援軍が国境を越える前に越後からは米沢軍が敗走してきた。
戦後、勝道は奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)の旗頭となった米沢藩主上杉斉憲(なりのり)の謝罪に奔走したと「米沢市史」に記されている。
新田藩の初代勝周の墓は林泉寺(りんせんじ)にあるが、2代以降は上杉家の江戸の菩提寺、東京都港区白金の興禅寺(こうぜんじ)に並んでいる。