~やまがた~藩主の墓標/(36)奥羽越列藩同盟の旗頭に
斉定は幼少期に義理の祖父に当たる鷹山に養育された。鷹山の薫陶(くんとう)を受け、天保4年(1833年)の全国的な大飢饉(だいききん)では自らの食事は粥(かゆ)にし、農民には米を支給した。藩内から餓死者は1人も出なかったとされる。
天保10年に斉定が死去し、長男・斉憲(なりのり)が家督を継いだ。鷹山が古希(こ き・70歳)の祝いを受けた年に生まれた、ひ孫の鶴千代である。

斉憲は藩内で種痘(しゅとう)を奨励する一方、洋式の軍事教練を導入するなど開明君主として知られ、藩政改革の功を賞されて慶応2年(1866年)、3万石の加増を受けた。
藩祖の景勝が越後90万石から会津120万石に加増移封されて以来、加増は実に268年ぶりのことで、斉憲は鷹山に次ぐ名君としての評価が定着している。
だが、その2年後に斉憲と米沢藩は戊辰戦争(ぼしんせんそう)に遭遇する。
慶応4年11日、朝敵とされた会津藩を救済するため米沢、仙台両藩が奥羽の諸藩に同盟を呼びかけた。これが後に「奥羽列藩同盟」、さらに長岡藩なども加わり「奥羽越列藩同盟」に発展する。
初日に集まったのは14藩。他藩は家老を派遣して様子見の姿勢だったが、米沢藩だけは藩主斉憲自身が1700人もの藩兵を引き連れて他藩を驚かせた。
米沢藩では、家老の色部長門(いろべながと)を総督に600人の兵を越後へ送り、長岡藩とともに戦った。だが7月29日に色部が戦死、米沢軍は敗走を余儀なくされる。米沢藩は9月2日、新政府に降伏するの止むなきに至った。
9月8日に明治と改元され、12月に斉憲は隠居、長男茂憲(もちのり)が最後の13代藩主となった。茂憲は明治4年の廃藩置県後は沖縄県令、貴族院議員などを務めた。
茂憲の墓は東京の菩提寺(ぼだいじ)にあるが、上杉家廟所(うえすぎけびょうしょ)には景勝と3代綱勝の御霊屋に挟まれ茂憲の遺髪を納めた石碑がある。
県令だった茂憲に恩義を感じた沖縄県民有志が建立した記念碑である。