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~やまがた~藩主の墓標/(35)人に恵まれた鷹山

2015年12月25日
 50年にわたり米沢藩の改革を主導した上杉鷹山(ようざん)。その手腕に対する後世の評価は高いが、偉業を遂げられたのは鷹山を支える多くの人々に恵まれたからでもある。

 鷹山と似た境遇で藩政改革に挑み、挫折した例として徳島藩の蜂須賀重喜(はちすか しげよし)が挙げられる。秋田の佐竹家の分家から養子に入った重喜は学識があり、論争して誰にも負けない聡明な藩主だった。
 有能な家臣を重職に抜擢する改革を実行したが、家格を重んじる家老級の反発ばかりか、家臣同士の新たな抗争をも招き、明和6年(1769年)、31歳の重喜は「藩政の混乱」を理由に幕府から隠居を命じられた。

~やまがた~藩主の墓標/(35)人に恵まれた鷹山
 明和6年といえば鷹山が初めて米沢にお国入りした年。鷹山に反発する重臣7人の「七家騒動」が起きたのは4年後だ。
 藩主に逆らっても家臣が罰せられなかった徳島藩の事例を7人が密かに調べ、そのうえで鷹山に改革中止を迫ったとされる。当時の鷹山の危機を救ったのは前藩主の重定(しげさだ)だった。

 鷹山の前半の改革を語るうえで補佐役の竹俣当綱(たけのまた まさつな)の存在は欠かせない。彼は藩の侍医で儒学者だった藁科松伯(わらしなしょうはく)の家塾で学び、藩政改革の必要性を痛感していた。松伯は世子時代の鷹山を教育した人物でもある。
 鷹山の理解者は次々に現れた。これに対して蜂須賀重喜は常に孤軍奮闘を強いられた。

 しかし、ある意味で鷹山の最高の支援者は国もとの側室・お豊(とよ)の方だった。初入部の翌年に2人が結ばれた時、鷹山は20歳、お豊の方は30歳。当時の女性としては大変な晩婚だが、聡明な女性で、鷹山は生涯ほかに側室を持たなかった。
 文政3年(1820年)3月、鷹山の古希(こき)(70歳)とお豊の方の傘寿(さんじゅ)(80歳)の祝賀があった。5月にはひ孫の鶴千代(後の12代藩主・斉憲)が誕生した。しかし翌年11月、お豊の方が亡くなると、わずか4カ月後に鷹山も後を追うように息を引き取った。

 長年連れ添い、仲睦(むつ)まじかった伴侶を失い、生きる気力を失ったとしか思えない最期だった。

加藤 貞仁