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~やまがた~藩主の墓標/(34)米沢藩、ついに借金完済

2015年12月11日
 上杉治憲(うえすぎはるのり)(鷹山・ようざん)は35歳で隠居し、前藩主・重定(しげさだ)の2男治広(はるひろ)に「伝国の辞」を与えて家督を譲るが、乞われて後見となり、瀕死(ひんし)の状態だった藩財政の改革に邁進(まいしん)する。その基本は「倹約」と「殖産興業」である。

 治憲が改革に着手してからの50年間で、倹約令は20回も出されている。藩内の意識改革がそれだけ困難だったことの傍証だろう。
 倹約の実例は、観光名所にもなっている米沢市の上杉家廟所(びょうしょ)にも見てとれる。7代宗房(むねふさ)までの御霊屋(おたまや)が複雑な「入母屋(いりもや)造り」なのに対し、8代重定からは安上がりな「宝形(ほうぎょう)造り」だ。
 寛政10年(1798年)に重定が死去すると、それまで火葬にした遺骨を高野山に納めていた藩主の葬儀を改め、土葬にして高野山には位牌(いはい)を安置するだけとした。
 治憲が鷹山と号したのは、重定が死んで4年後の享和2年(1802年)である。号は白鷹山(しらたかやま )からとったとされる。

~やまがた~藩主の墓標/(34)米沢藩、ついに借金完済

 一方で殖産興業は遅々として進まなかった。それを打開するため隠居していた莅戸善政(のぞき よしまさ)を藩政に復帰させ、中老職に任じた(後に奉行に昇進)。
 失脚した竹俣当綱(たけのまた まさつな)が起案した漆(うるし)、桑(くわ)、楮(こうぞ)の各百万本の植樹計画のうち、漆は品質の良い西国の櫨蝋(はぜろう)の普及に押され収益が上がらず、楮は藩内で紙漉(す)きが普及しなかった。
 だが養蚕(ようさん)は下級藩士の副業として絹織物につながり、現在も続く「米沢織」に結実した。さらに煙草栽培、鯉(こい)の養殖、筆作りなどの新しい産業が生まれた。
 天明の飢饉(ききん)や水害などで荒廃した農地を回復させるため、武家の2男、3男に帰農を奨励し、田畑を耕作する牛馬の増産にも努めた。

 治広は文化9年(1812年)、中風(ちゅうふう)のため家督を甥(おい)で養嗣子(ようしし)の斉定(なりさだ)に譲った。幼少期の斉定を教育したのは鷹山で、引き続き後見役を務めた。

 それから10年後の文政5年(1822)3月、鷹山は睡眠中、静かに息を引き取った。享年72(満70歳)。後を追うように半年後、治広も死去した。
 かつて20万両もあった借金を米沢藩がついに完済したのは、その翌年である。

加藤 貞仁