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~やまがた~藩主の墓標/(33)倹約に奔走した鷹山

2015年11月27日
 上杉治憲(うえすぎ はるのり・後の鷹山(ようざん))が第9代米沢藩主となった明和4年(1767年)、藩には20万両、今の時代に換算すれば200億円にのぼる借金があった。当時の平均的な米価では、米沢藩15万石の米をすべて売っても3万両だから、気の遠くなるような数字だ。

 この窮状に治憲は真正面から立ち向かう。補佐したのは奉行の竹俣当綱(たけのまた まさつな)と、小姓頭の莅戸善政(のぞき よしまさ)だった。
 治憲はまず「大倹約令」を発し、1500両だった江戸屋敷の藩主費用を209両に削減、50人いた奥女中を9人に減らすなど倹約に大なたを振るった。だが倹約だけで財政が好転するはずもない。

~やまがた~藩主の墓標/(33)倹約に奔走した鷹山

 そこで竹俣は漆(うるし)、桑、楮(こうぞ)の3種の樹木を各100万本植えるという産業振興策を提案した。漆は蝋(ろう)、桑は生糸、楮は和紙の生産につながり、成功すれば米で16万石以上に相当する。植樹費用を捻出(ねんしゅつ)するため竹俣は債権者である商人らに協力を要請した。
 このあたりの竹俣の奮闘ぶりは藤沢周平の小説「漆の実のみのる国」に詳しい。
 ところが、この振興策が実行に移された7年後に竹俣は失脚してしまう。藩祖・謙信の忌日(きにち)に酒宴をしていた不敬罪などに問われたのだ。竹俣の行動は理解に苦しむが、5か月後には莅戸も辞職する。

 改革の両翼を失って治憲も気落ちしたのか、その3年後、前藩主・重定(しげさだ)の2男・治広(はるひろ)に家督を譲り、35歳で隠居してしまう。この時、藩主の心構えを示したのが「伝国の辞」だ。
 「国は先祖から子孫へ伝えられるもので、藩主の私物ではない」「領民は国に属しているもので、藩主の私物ではない」「国、領民のために存在し、行動するのが藩主で、藩主のために存在・行動するのが国、領民ではない」
 この3カ条は代々、家督相続に際して新藩主に伝承された。

 治憲は治広の後見としてさらに改革を進めるが、「漆の実の…」はその成果が現れる前で終わっている。小説の中で鷹山が死去する前に藤沢の命が尽きたのだった。

加藤 貞仁