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~やまがた~藩主の墓標/(32)治憲(鷹山)が9代藩主に

2015年11月13日
 嗣子のなかった第8代米沢藩主の上杉重定は宝暦9年(1759年)、日向高鍋藩主・秋月種美(あきづき たねみつ)の次男・松三郎を養子嗣に迎えることを決め、翌10年に実子が生まれたにもかかわらずこれを実行した。

 松三郎の母方の祖母は第4代米沢藩主・綱憲(つなのり)の娘で、筑前秋月藩主の黒田長貞に嫁いだ豊姫(とよひめ)。実母が若くして死去した松三郎は一時期、祖母の豊姫に養育された。重定の養子嗣に松三郎を推挙したのは豊姫だった。 
 数え10歳で養嗣子となった松三郎は、直丸(なおまる)と改名する。この直丸が後の上杉鷹山(ようざん)である。

~やまがた~藩主の墓標/(32)治憲(鷹山)が9代藩主に

 当時、重定は藩政を顧みず、金剛流の能に明け暮れていた。改革派の家臣たちは陰で重定を「暗君」とささやき、1日も早い直丸への家督相続を待望していたが、重定は藩主の座にしがみついていた。
 ようやく重定が隠居し、治憲(はるのり)と名を改めた直丸が家督を継いだのは明和4年(1767年)、治憲が16歳の時である。
 治憲は2年後、重定の娘で1歳下の幸姫(よしひめ)と結婚、その年に江戸桜田の米沢藩邸から初めてお国入りする。

 借財の山だった藩の窮状を目の当たりにし、家臣、領民と直に接して本格的な藩政改革に着手しようとする治憲の前に立ちふさがったのは、謙信以来の名家で、かつては120万石だったという大藩意識だった。
 「普段着は木綿(もめん)、食事は一汁一菜(いちじゅういっさい)にすべし」と命じた大倹約令などは、「小藩から来られた方に上杉家の格式はわからぬ」と上級家臣の猛反発を受けた。
 安永2年(1773年)には7人の重臣が城に押しかけて治憲の改革を批判、治憲を支持する家臣らの罷免(ひめん)を強訴(ごうそ)する事件にまで発展する。これが後世に名高い「七家騒動(しちけそうどう)」である。

 この時、騒ぎを知った前藩主重定が駆けつけて重臣たちを叱責(しっせき)し、治憲を救う。7人の訴えに根拠がないことを確認した治憲は2人に切腹、残り5人には隠居の上、家禄半減などの重い処分を下した。
 思いがけない重定の行動に対し、治憲は終生恩義を感じたという。

加藤 貞仁