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~やまがた~藩主の墓標/(31)窮地に追い込まれる藩財政

2015年10月23日
 実父の吉良上野介(きら こうずけのすけ)が赤穂浪士に殺されて2年後、米沢藩4代藩主・上杉綱憲(つなのり)は40歳で病死した。後継は長男・吉憲(よしのり)である。

 吉憲は弟の勝周(かつちか)に1万石を分与して米沢新田藩を創設した。分家創設は無嗣断絶(むしだんぜつ)など万が一の危機に備えて家名を残すためだったが、綱憲の奢侈(しゃし)により悪化した藩財政はいよいよ逼迫(ひっぱく)した。
 参勤交代の費用にも事欠いたという逸話も伝えられており、そんな気苦労もあってか、吉憲は38歳で死去した。

~やまがた~藩主の墓標/(31)窮地に追い込まれる藩財政

 6代藩主には吉憲の長男・宗憲(むねのり)が就いたが、20歳で早世。7代は弟の宗房(むねふさ)が継いだものの、またも28歳の若さで没した。3男は他家の養子になっていたので4男の重定に8代藩主の座が転がり込んだ。

 当時の米沢藩では一部の上級藩士を除いて武士の大半が内職に精を出し、商人に身分を売り渡す家も珍しくなかった。
 だが重定は藩政を顧みることなく、金剛流の能に耽溺(たんでき)した。浪費家ぶりは祖父・綱憲の血を引き継いだものか。

 そこに登場したのが下級藩士の出で、重定の小姓だった森平右衛門利真(もり へいえもんとしざね)である。森は年貢増徴や町人・農民からの人頭税の徴収、作物売買の統制やそれらへの商人の参画などを次々と断行、重定の寵愛(ちょうあい)を背に累進を重ね、藩政を牛耳った。私腹も肥やしたとされる。
 見かねた江戸家老・竹俣当綱(たけまた まさつな)が密かに米沢へ下り、森を城に呼び出して刺殺したのは宝暦13年(1763年)2月。竹俣らは重定に森の悪政を訴え、藩政改革を迫った。

 森一派は粛清されたが、藩財政の苦しさは変わらない。窮した重定は幕府に領地返上を願い出ることを画策するまでに至る。重定がこの重大事を相談したのは御三家筆頭の尾張藩だった。 
 重定の正室は尾張藩主・徳川宗勝の娘で、先代の宗房の正室も尾張徳川家から迎えていた。両家の縁は深かったのだ。
 結果的に領地返上は尾張家から諌(いさ)められ、実行されることはなかったが、これほど当時の藩財政は窮地に追い込まれていたのである。

加藤 貞仁