~やまがた~藩主の墓標/(29)景勝~定勝の治世と廃絶の危機
まず、小さかった米沢城を拡張し、近江(滋賀県)国友(くにとも)の鉄砲鍛冶(かじ)を呼び寄せて多数の鉄砲を作らせた。軍備増強を図ったのである。徳川家康に従軍した大坂の陣でも武功を挙げた。

一方で領国を豊かにする施策を次々に打ち出した。城を囲む家臣の屋敷地と町人の住む町割りを行い、城下町を整備した。その際、数多い下級家臣には郊外に土地を与え、荒れ地を開墾させた。農民には新田開発を促すとともに、紅花、青苧(あおそ)、麻、漆木(うるしのき)など換金作物の栽培を奨励した。
当時の米沢藩の年貢率は約3割。他藩や天領に比べかなり低いが、領民を豊かにすることが領国を豊かにするというのが景勝・兼続の信念で、実質50万石を目指した。
兼続は元和5年(1619年)、60歳で死去。その4年後に景勝も69歳でこの世を去った。米沢藩は景勝のただ1人の男子、定勝が継いだ。
定勝は郡代など農村の支配体制を整備し、藩士に対しては、謙信公以来の家風であるとして「万事に質素で律義であるよう」命じた。
そして寛永15年(1638年)、米沢藩として初の総検地を実施した。そこで判明した石高は51万7千余。「実質50万石」が2代目の定勝の治世で実現したのである。
ある時、定勝に近侍する家臣の中に常に憂(うれ)い顔の男がいた。別の家臣が「あの顔は人を不快にさせるので罷免(ひめん)しては如何(いかが)」と諫言(かんげん)すると定勝は「それなら弔問(ちょうもん)の使者にでもすればいい。そんな理由で人を捨ててはいけない」と嗜(たしな)めたという逸話がある。定勝はなかなかの人物だったようだ。
定勝は正保2年(1645年)、41歳の若さで亡くなり、6歳の綱勝が後を継ぐ。だが綱勝も25歳で早世してしまう。綱勝に嗣子(しし)はいなかった。
江戸時代初期、無嗣断絶(むしだんぜつ)となった大名は数多い。まして関ヶ原では敵対した外様の上杉家。謙信以来の名門も、風前のともし火と言える危機を迎えた――。